【03】
(——それからずっと、ここに閉じ込められてる……)
ミルは閉じていた目を開け、唯一の変化を刻む格子窓の向こう側を見上げた。
少し前までそこには月が見えていたが、今は窓から観測できない場所に逃げてしまった。
拘束されたミルが転がされているのは、牢屋の中だ。
黒い鉄格子が外界との境界を隔てる無骨な空間。
牢屋とは言っても、衛兵に捕まっているわけではない。連れ込まれた時は意識を失っていたので確信はないのだが、恐らくここは博士と呼ばれていたあの男の研究所ではないかとミルは疑っていた。
衛兵の詰所にある牢屋ならば見張りの看守がいると考えられるが、ここにはそれがない。それに、いくら罪人だろうが手足を縛って猿轡を噛ませて転がしておくという話は聞いたことがなかった。
殺されても可笑しくはなかった状況で生かされているのも不思議だが、そんなことより、はっちゃんが無事でいるのかどうか、ミルはずっと不安だった。
あの男が最初に狙ったのは彼女なのだ。
ミルと戦ったのは、ミルがそれを邪魔したから。仕方なく応戦した可能性が高い。……投擲されたナイフだって、結果的にはミルに突き刺さったものの、少女だけを狙って投げた可能性があった。
保護者を名乗るくせに、一体何事なのか。
……親、なのか?
靴すら履かせず、あまつさえ八十四番などという名を子につける親が、いるのか?
子を殺そうとする親が——
(……いや、まあ、珍しくないか……)
でもやっぱり、何度考えたって奇妙である。
きっとミルには思いもよらない事情が彼らにあるのだろう。
(八十四番って、なんでその数字にしたんだろ……)
現状、ミルはすでに自力での脱出を諦めていた。
日中はその目に希望を灯していたが、いくら暴れたところで手足の縄は深く食い込んで肌を傷つけるだけだったし、叫ぼうにもくぐもった声しか出ない。それなりの時間を過ごしたが、誰もやってこないし、何の音もしないのだ。
だから自然と、考えたってどうしようもない、はっちゃんに関する疑問ばかりが頭に浮かぶ。
マリィはどうして天使の羽根を求めていたの?
依頼書を書き上げる前に亡くなったのなら、死因は?
なぜはっちゃんに依頼書を託したの?
どうして声をかけられたのが自分だったの?
はっちゃんは、今もちゃんと無事でいるだろうか——
「………………」
澄んだ空色の瞳が、すっと光を失っていく。
ミルは静かに目を閉じた。
(私は、本当は運が悪い)
昔から、そうなのだ。
ここ数年が、変だっただけで。
今まで貧乏くじばかり引いて、どうしようもない状況に何度も陥って、その度に色んなものを失ってきた。
助けは来ない。
少なくとも、今までの十六年間の人生の中で、無償の手のひらを差し伸べてもらったことなんてどれだけあったろう。いくら普段から親しくして優しい言葉をかけてくれた人だって、命の危険を冒してまで他人を助けになど来ない。お願いだからと縋り付いても、迷惑そうに足を払われるのが関の山だ。
————ただ、一度だけ。
——たった一度。
「助けて」と自ら伸ばした手を、掴んでもらえたことがある。
それまでミルが縋った人達のように、優しい言葉を率先してかけてくれる人ではなかった。なんなら親しくもない他人だった。出会ったばかりで、むしろ明らかに迷惑そうにされていた。
でも、その人はミルを拒絶しなかった。
————何年も前のことだ。
まだミルが今より幼く、力も知恵もなく、冒険者でもなかったころ。
燐光湖の森で何日も彷徨って、死を覚悟したことがある。
思い返せばちゃんちゃら可笑しな話である。だってミルは、死ぬつもりで森に入ったのだ。
地元の人々が恐ろしい魔境だと噂する魔物の棲家。
持ち物はこの身一つと剣が一振り、一文無し。
行くあても生きるあてもなかったミルは、飢えて死ぬより魔物に食われる方がマシなのではと考えた。
どんな恐ろしい魔物がいるのだろう。小型の魔物に少しずつ貪り食われるのは御免だが、魔境というなら大型の強い魔物がたくさんいるだろう。大きな身体を持つ魔物なら、その一口はきっと大きくて、何なら痛みを感じる暇もなくミルの身体を八つ裂きにしてくれるかもしれない。
……でも。
でも、でも、本当は怖かった。
そんな自暴自棄な思考から森へ入ったのに、すぐに自棄は恐怖に上書きされた。どれだけ強がってみたって、結局ミルは自分が可愛かったのだ。
恐怖を受け入れるには時間が掛かった。
素直になるほど歩いた頃には、すっかり帰り道が分からなくなってしまっていた。
目についた花の蜜を啜った。朝露を集めて、地面に溜まっていた雨の名残を啜って、よく分からない果実を捥いで腹を満たした。
見た事がない恐ろしい魔物を、木の上でじっと身を潜めてやり過ごした。その傍らで帰り道を探したが、いくら歩けど見つからなかった。
代わりに見つけたのは光るキノコだ。
ぼんやり白く輝くそれを必死に追いかけた。この放浪に何らかの形で決着がつくのだと、期待に胸を膨らませながら。
その先で、ミルは魔法使いと出会う。
『あっ』
殺意、というものを、幼いながらにミルは理解していた。
光に導かれた先で、その魔法使いは静謐なる殺意をミルに向けて待ち構えていた。
そんな男が周囲に不自然な光を浮かべてみせた時、ミルは正しくその意図を理解した。この男は私を殺すつもりだと。
でも、その時のミルは恐怖を受け入れて素直になっていた。死にたくなんてなかったから、必死で考えた。
自分は子供で、相手は大人だ。殺すのを躊躇するような、良心に訴えかけるような、そんなアプローチを試みた。
『わあ、きれい!』
……とはいえ、全てが全て嘘ではなかった。
黒い魔法使いが浮かべたいくつもの光はまるで星の輝きのように瞬いて、紅葉を淡く照らし出し、とてもとても、美しかったのだ。
『おじさんは魔法使いさんなんですか? もしかして、森のキノコが光ってたのも、おじさんが何かしたんですか?』
無邪気で愚かな子供に見えるよう、必死で振る舞った。敵ではないと言外に演出した。
『実は迷子になっちゃって……帰り道を教えてもらうことってできますか?』
その甲斐あってか、魔法使いは己の用事が終わってからならば帰り道を教えてくれると言い出した。
魔法使いは名乗らなかった。
ミルが話しかけても、返事をしてくれるのはせいぜいが三回に一度くらい。
けれど、子供の歩幅など気にせず森を歩くくせに、ミルがもたもたと追いつけずにいると立ち止まって待ってくれる、そんな大人だった。
魔法使いの目的地は広大なる森の最深部にあるとかで、なかなか用事は終わらなかった。ミルはその間の餓えを、彼と出会うまでにしてきたように満たそうとした。
目についた果実を捥いで、花の蜜を啜って。
『……どこでその方法を学んだんだ?』
すると、その様子を見ていたらしい魔法使いが、初めてミルに話しかけてきたのである。
何を聞きたがっているのかよく分からなかったが、どうも、ミルが気に入った紫色の果実は決まった方向に捻って捥がないと酷い味になるのだとか、同じ花の中でも蜜がたっぷりの個体だけを選んで吸っているのだとか、色々言っていた。
ミルは花なんて何となくで選んでいたし、果実を捻る方向だって意識してはいなかった。でも、果実はいつも甘かった。
そう伝えると、無口だった魔法使いは、道すがら目についた植物について解説してくれるようになった。解説どころか、教えた通りに採取するよう求められることも多々。
『おじさん見てた⁉︎ ちゃんとできた! きれいでしょ!』
『うん、悪くないよ』
ミルは魔法使いの解説を聞いて実践するのがいつしか楽しくなっていた。
けれども、そんな楽しい小さな冒険はあっという間に終わりを告げる。大人受けの良い子供を演じるのをすっかり忘れて、素のままでミルが魔法使いとたくさん話していると、すぐに最奥に辿り着いてしまったのだ。
まるで束の間の夢のようだった、とミルは思う。
『わあ! きれーい!』
燐光湖の名の通り、湖が淡い光を帯びて輝いている。
たどり着いたのは夜だったから、余計に美しく見えた。
光源なんて不要に思えるその空間でも、ミルは魔法使いに教わりながら湖の水や輝く藻を採取した。
その晩は月明かりの眩しい夜だったが、湖の光が素晴らしかったから、ミルも、魔法使いですら、月の光が不意に翳ったことに気づかなかった。
『ねえねえ、おじさん。このお水を何に使うの?』
小瓶に閉じ込めてもなお淡く光る水をちゃぷんと揺らし、ミルはご機嫌で隣に立つ魔法使いを見上げた。彼の顔はフードに隠れてよく見えないが、でも、口元が笑っていたから、ミルもますます笑顔になる。
演技ではない無邪気な笑みが、しかし次の瞬間凍りついた。
ミルの視線は背の高い魔法使いよりもなお高く、天空を見つめている。
大きな月が、可笑しな形をしていたのだ。何かが空に浮いている。いや、飛んでいる。何者かの影であると判断できたのは、黒いシルエットが一瞬のうちに大きく迫ってきたからだった。
『おじさんっ!』
ミルは小瓶を放り捨て、思い切り魔法使いの腰に飛びついた。
小さな体とはいえ、油断しているところに全力で突進されれば大の大人だろうがバランスを崩す。魔法使いはミルに突き飛ばされるように尻餅をついた。
さっきまで魔法使いが立っていた場所にミルが転がると、天空から急降下してきた黒い影が、その身体を鷲掴みにしてしまった。
『あああああっ』
鋭い鉤爪が容赦なくミルの胴体に食い込んだ。恐怖が先走って、痛みを感じる前から悲鳴をあげていたかもしれない。
影の正体はハルピュイアと呼ばれる高位の魔物だった。上半身は人間の女のような姿をして、腕は翼、下半身は猛禽類を思わせる特徴を持つ、強力な肉食の魔物だ。
ハルピュイアはミルたちを獲物と認識して襲ってきたのだろう。ミルだって信じられない痛みの中ですぐに自分が喰われることを理解した。
——それまでの短い人生で、伸ばした手を掴んでもらえたことはない。
懇願を、聞き届けてもらえたことだって。
『おじ、さん……助けて……たすけて……っ』
でも、ミルは懲りずに手を伸ばしていた。痛みに喘ぎながら絞り出した声を、拾い上げてもらえるなんて期待はしていなかった。何もかもが無意識のうちの行動だった。
行動に移してしまってから、絶望する。
どうせここで死ぬのなら、不思議な魔法使いとの楽しい数日間だけを胸に抱いて終わりたかったから。
また、助けてもらえなかった——
そう思いながら、優しかった魔法使いに失望をしながら、死にたくなんてなかったのに。
——僅かに身動ぎをすると、ロープが擦れた手首にじんと痛みが走った。ミルは息を詰め、また目を閉じる。
(……あの夜の痛みの方が、今よりもずっと鮮やかだった)
瞼の裏に、ミルはここにない姿を思い描く。
漆黒を纏う、あの人を。
——記憶の中で、ハルピュイアが飛翔していく。
少しずつ遠ざかっていく地面を見下ろしていると、ポロリと、いつぶりかも分からぬ涙が白い頬を煌めかせた。
だが、その涙が地面を濡らすより、不可視の刃がハルピュイアの身体を切り刻む方が早かった。
『あ——え……?』
落ちていく。真っ逆さまに。力を失った鉤爪がミルの身体を取り落としたから。
訳も分からず風を感じていた。
死の恐怖、燃えるような腹部の痛みすら忘れて目を丸くしていると、どう考えても物理法則を無視した優しい感触で、ぽすんとミルの身体は黒い腕に抱き止められたのだ。
そして、
「……ごめん、油断した。大丈夫かい、ミルちゃん」
ことさらに優しい声で、魔法使いはそのとき初めてミルの名を呼んだ。
「——?」
ミルがずっと心の奥底にしまい込んでいた優しい思い出に浸って現実逃避をしていると、現実と記憶が重なったような錯覚を抱いた。記憶を読み返していただけなのに、まるで今ここにいる自分の鼓膜が震えたかのような、そんな違和感。
いや——
違和感は、それだけではない。
ふるりと瞼を震わせて、ミルは状況を確認した。
「……あ、れ……?」
きつく自由を奪っていたロープが、布切れが、気づけば消えている。
いつから? なんで? どうやって?
「え……?」
掠れた声が自分の鼓膜を震わせた。
思わず上体を起こしてから、体のあちこちが悲鳴を上げる。でも、痛みに身を竦める暇なんてミルにはなかった。
足音はなかったはずだ。いくら記憶に集中していようが、流石に気がつく。
でも。
——漆黒を纏う魔法使いが、そこにいた。
格子窓から差し込む月明かりに見出され、静かにミルを見下ろしている。
鉄格子は閉ざされたまま、空いた形跡はない。
「あ……あ、ぁ……」
言葉にならない感情が口の端からこぼれ落ちた。
いつから? なんで? ……どうして?
何もかも分からないのに、ミルの瞳からポロポロと安堵の涙が滴り落ちる。
この人を知っている。
口元くらいしかろくに見えない、真っ黒いローブにすっぽり全身を隠した装いだろうが、ミルには分かる。
この声だ。今の声だ。低くて優しい、あの声だ。




