ep.06 何のために、こんなこと【01】
——何でこんなことになっちゃったんだっけ。
ミルは無意味な思考に没頭する。
固く縛られた手足。噛まされた猿轡の布はカビ臭く、今はもう感覚が麻痺したものの、最初はえずきたくて仕方がなかった。
視界だけは奪われていないが——随分高い場所にある格子窓から差し込む光が、小さく見える空の色が、刻一刻と変化していくのを見ているしかできない。
それがミルの精神を追い詰めた。
身動きも取れないまま放置され、ずっと石床と接している右半身が冷えて、痛い。それに、怪我もしている。手当てもできないまま放置し続けた傷がじくじくと熱を持って疼く。化膿してしまっているのかもしれない。
無力に転がるしかできない現状も含めて、何もかもが痛くてたまらなかった。
——どうしてこうなっちゃったんだっけ。
ミルは目を閉じ、日中の出来事を反芻した。
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ギルドを後にしたミルは、もやもやとした気持ちを抱えながら宛てもなく王都を彷徨っていた。
匿名さんの依頼を待ち続け、それだけを頼りに生活する——今まで、それでもさして困りはしなかった。何なら、この数年間がミルの人生の中で一番安定して、平和だった。
大きな怪我をすることもなく、誰かに悪意を持って傷つけられる事もなく。何もかもがミルに都合良く動く夢のような日々だった。まるで人生のボーナスタイム。行き止まりの中で縋る架空の幸福とよく似ていた。
どうして急に焦り始めたのか?
ミルはその理由を誰かに語ることは決してないが、自覚はしていた。
——顔も名も知らぬ他人を、信頼している自分に気がついたからだ。
〝匿名さん〟はきっとそろそろ私に依頼をくれる。それもミルが大好きな採取の依頼。そう予想してギルドに足を運べば、九割の確率で想像通りの未来が待っていた。……一度だけ、依頼に間が空いたこともあったけれど。でも、たった一度だ。以降、依頼が途切れたことはない。
ミルは匿名さんに期待していた。信じてしまっていた。理由も分からないのに、あの人はきっとまた自分に依頼をくれるのだと。
ふと、そんな自分に気がついた。
ああ、なんて気持ち悪い。
他人を信じる自分が気持ち悪い。
他人に期待して生きる自分が気持ち悪い。
他人に心乱される自分の何もかもが気持ち悪い!
それまでは何も考えず都合の良い現状を享受していたミルだったが、己の甘えに気付いてしまうと、もうダメだった。
だから、匿名さんとは無関係な方法で金を稼ぎたくなった。
それでも自分は大丈夫だと、証明したかったのだ。
「あのう、冒険者様ですか?」
俯き気味に歩いていたミルに、控えめな声がかかった。
裾が擦り切れた水色のケープとマント、背中には革のベルトで白鞘の剣を固定している。腰にはナイフや傷薬、財布なんかが入ったウエストポーチ。いつもそう変わらないミルの姿は、まあ、確かに一見して冒険者らしいスタイルではある。
足を止め、顔を持ち上げ、空色の瞳を動かす。正面、ではない。先ほどの声は右側から聞こえてきた。ミルが通り過ぎようとしていた路地の隙間に、その少女は立っていた。
歳のころは十よりも下といったところか。
ウェーブがかった亜麻色の髪はボサボサで、櫛を通しているようには見えない。
今の季節は春だが、真夏であるかのような肩を出したボロ切れのようなワンピースを一枚纏っているだけ。靴すらなく、細かい傷が目立つ素足で地面に立っている。
——孤児だ。
少女がミルの立場を見抜いたように、ミルもまた一目見て少女をそう値踏みした。
「……どうしたの?」
王都など主要都市ともなれば、孤児なんて珍しくもない。裏路地やスラムにはごまんといるし、表に出てきて物乞いをしたり、スリをして追いかけられていたり……そんな姿を、誰だって一度くらいは目にしたことがあるはずだ。
孤児や貧民に自ら関わるのは愚かなことだ。最後まで面倒を見る気のない中途半端な優しさが、相手どころか自らまで追い詰める。
「お姉ちゃんに何か用事?」
ミルだってそれが分からない人間ではない。しかし、自分に向かって直接声を掛けられてしまうと、どうにも無視をするのも憚られた。
「…………」
躊躇いがちに返事をしたミルを、少女は少しぼんやりと眺めた。不審にその様子を観察していると、やがてハッと我に返ったように顔を明るくする。
「あのね、あのね。これ……」
「……?」
少女は手に握りしめていた何か——丸めた紙切れをミルに差し出した。読め、ということだろうか?
受け取るか悩む間もずっと腕を上げてミルへ伸ばし続けるものだから、観念して受け取った。
「〝素材調達と配達の依頼〟」
乾いた音を立てて紙を広げてみると、真っ先に冒頭の記載に目が行く。それは、ミルにとって見慣れたものだった。
——冒険者ギルドの依頼書だ。
紙は随分とボロボロだが、枠組みや書式などはまさに記憶の中のものと同じ。唯一違うのは、ギルドが正式に依頼書を受理したときに捺されるはずの認可印が捺印されていないことだけか。
どこか拙い、幼さを感じる文字で綴られた依頼内容は先ほど読み上げた通り、とある素材の調達と配達だ。詳細説明欄に記載の文によれば、天使の羽根というアイテムを指定の住所に届ければいいらしい。
ただし、報酬欄は空白だ。
……報酬が用意できなかったから、受理されなかったのだろうか?
それとも、これは未完成の依頼書なのだろうか?
ミルは依頼書を書いたことはないが、ギルド内には記載台が設置されていて、そこに空欄の依頼書が束で置かれている。
冒険者への依頼を考えている人間は、まずそこで依頼書を書き込んで、受付で手続きをする必要があるようだ。
最後に、ミルは依頼人の名を確認した。
ミルが見慣れている依頼書はいつだってそこだけが空欄だが、これは違う。
依頼主の名はマリィ。
「……君がマリィ?」
慎重に問いかけると、少女はふるふると首を横に振った。
「わたしの名前は八十四番」
「はち……え?」
「マリィは、わたしの友達……」
厄介ごとの匂いがした。
天使の羽根——その名の通り考えるなら、まずミルは神話や伝説に登場する天界の住民が背に生やしているという白い翼を連想する。だが、天使は架空の存在だ。となると、その名を冠した別物が、この世に存在すると考えるべきだろう。
ミルには少し、心当たりがあった。
いつか黒衣の魔法使いがくれた黒い手帳に、そういう名前の植物についてのページがあったと記憶している。
「マリィに、これをギルドの人に渡すようお願いされたんだけど、断られたの」
「そう、なんだ。……報酬が書いてないからかも」
「書き終わる前に死んじゃった」
「……死……」
たぶん、これ以上聞かない方がいい。ミルの本能、もしくは理性が、そう警鐘を鳴らしている。
でもミルの足は縫い止められたように動かないし、少女は勝手に口を動かす。
「これじゃやっぱり足りない?」
八十四番と名乗った少女は、ワンピースの腰のあたりをゴソゴソと弄った。どうも、そこにポケットがあるらしい。
出てきたのは小石だった。
緑色に透き通っていて、気のせいかほんの僅かに真ん中が光っている……ような気がしないでもない、ちょっとだけ変わった石。直径にして三センチほどの、小さなものだ。
「これじゃダメって言われたの」
「ギルドの人に?」
こくり、と頷く。
「冒険者様って、お願いを叶えてくれるんだよね?」
よく見れば、少女の瞳とその小石はよく似た色をしていた。
澄んだ緑に見つめられる。
「……………………………………」
こういう場合の逃げ出し方を、ミルはよく知らなかった。




