ep.05 賢者の誤算
——ミルが将来について悩み、ギルドへ足を運んでいた頃。
レイドは荒廃した大地を見下ろす断崖の縁に腰掛けていた。
今の彼が纏うのは金刺繍が施された賢者のための黒衣。青い魔石の片手杖を指先でペンのように遊ばせている。くるりと器用に杖を回すたび、魔石の青が、精緻に掘られた金の軸が、陽光を弾いて輝く。
顔は相変わらずフードで隠されている。
頬杖をつく彼がつまらなそうに眺める先には、見上げてもなお視界に収まりきらない巨躯を誇る一頭の赤竜と、それを討伐するため出陣した騎士団員の群れがある。
騎馬に跨る彼らは竜を取り囲んで隊列を組み、槍と魔法でちまちまと攻撃していた。
レイドはその様子をかれこれ数十分は眺めているが、赤竜に決定的なダメージは無いどころか、未だほぼ無傷と言っていい。
高密度の魔力を焔として吐き出す赤竜のブレスが彼らを焼きそうになれば、レイドは億劫な手つきで杖を振って障壁を張り、必殺とも云えるそれを防いだ。
(——陛下はこんなお守りをしてる暇が僕にあると思ってるのかよ。ミルちゃんの見守りで忙しいんだぞ、こっちは……)
やがて魔法部隊がチカチカとした閃光を空に打ち上げた。
(……やっと諦めたか。判断が遅い)
レイドは杖をおざなりに振り、何者をも貫く氷柱を作り出した。冷気を放つそれは余韻も残さず赤竜を射抜く。
ドラゴン系の種族はどれも硬い鱗を持つ強力な個体が多いが、賢者の魔法の前では飴細工同然だ。
「僕ひとりでいいのに、どうしてこんな無駄な人員を割くんだ?」
耳に遠く届く赤竜の断末魔を意に介さず、レイドは背後にやってきた一人の男に声をかけた。
振り向かないまま、頬杖をついたまま、名も呼ばず、独り言のようにも受け取れる態度だったが——背後の男、イース=セルグリッドは賢者の背中を見下ろして苦笑を浮かべた。彼は王国騎士団総長を務める男だ。
「……まあ、そう言ってくれるな。経験を積ませたいんだよ」
「どうせああいうの相手で前線に出るのは王国騎士団の中でも一握りだろう……あんな新人ばかりの部隊が駆り出される事態になったならその時点で国の終わりは近い」
「その一握りの精鋭達にもああいう時代があったんだ、レイド」
賢者の隣に腰を下ろしたイースは、「俺にもあったぞ」と人懐っこく笑った。
そんな彼をレイドは横目に一瞥する。
「そいつはよちよち歩きをしていた赤子の時代かい」
一から七までの騎士団の総指揮を任されるイースは、王国最強の剣士だ。あまりに人間離れしたその力を揶揄して「総長殿はフォークよりも早く剣の使い方を覚えた」だの、ふざけた詩が市井で流行ったこともあるほどだった。
剣を抜いた彼に敵うものはいない。
——隣に座る、王国最高の賢者であれば話は別かもしれないが。
そんな二人は古くからの友人で、英雄イースは人間嫌いの賢者殿が唯一まともに会話に応じる相手だ。
短く切った銀の髪、髪と同じ色の鎧、白い外套。黒づくめの賢者と対称的な出立ちをしているイースは、不機嫌を隠そうともしない空気を醸すレイドに首を傾げた。
「それにしても珍しいな。新しい魔法が試せる〜って喜ばないのか?」
「試してるさ。ずっと。最初から。僕は今日、実戦で初めて使用する新魔法しか使ってないよ」
「うちの可愛い新人達を実験台にするなよ。……って、そうじゃなくてな。なんか機嫌悪くないか?」
「久々に俺に会えたのに」などと真顔で嘯くイースに、レイドは口の端を引き攣らせた。
「僕が君に会って感激したことが一度でもあったか? ん?」
「ないかもなあ」
顎を撫でながら、やはり涼しい顔で返すイースである。真面目なんだか揶揄っているんだか分からないその態度に、レイドはいつもイライラさせられるのだ。
「……もう帰る」
本当に転移の魔法の準備を始めようとしたレイドだったが、即座にイースは黒いローブをむんずと鷲掴みにして引き止めた。
「まあ待て。この後は北方に出現した翼竜の群れとの戦闘訓練だ。送迎とお守りを頼みたい」
「離せ。送ってはやるが、あとは英雄様がお守りでも何でもすればいい」
「陛下たってのご希望だ。実はあの新人部隊には王妃に縁ある方が……」
ローブの裾を離さないまま、イースは淡い紫の瞳で眼下を一瞥した。大地では、レイドがとどめを刺した赤竜の亡骸を部隊総出で解体している。
「………………だからわざわざイースまで様子を見にきているんだな?」
レイドが呆れを隠さず声に乗せると、総長は肩をすくめた。
「陛下は王妃様を溺愛していらっしゃるからな。万が一にも心を痛める可能性は排除して差し上げたいのだろう。まあ、こればかりは仕方がない。色恋沙汰はいつだって先に惚れた方が弱いものだ」
「………………」
レイドは口をへの字に曲げながら、愛しの少女に想いを馳せた。
鮮やかな夏を思わせる容姿を持つ、危なっかしい女の子。
……まあ、いつも通りならば今日の彼女は休息に一日を費やすはずだ。何せ、レイドからの依頼を終えて王都に戻ってきたのは昨日の話である。
のびのびと休日を堪能する彼女の姿が見守れないのはひどく残念だが、王都内にいるならばある程度は安全だ。滅多なことではレイドの魔法が必要になるような事態にはならないだろう。今まで、そうだった。
——賢者は、そう判断を下した。
*
レイドが魔導塔へ帰宅を果たしたのは深夜を回ってからだった。
もともと今日は非番の筈だったというイースが、久々に会えた友人をなかなか帰そうとしなかったのである。
「結局最後まで付き合わせて悪かったなぁ」「打ち上げに参加していけよ! みんな賢者殿の話を聞きたいってさ」「飲み足りん、二人で二軒目だ」——ガッチリと鍛えた腕を友人の肩に回したイースは好き勝手にレイドを振り回してきた。
外の店で食事を取るなんていつぶりだったか。
酒も、もう久しく飲んでいなかった。
ミルの見守りを始めてからというもの、元々薄かった公私の境目がさらに曖昧になった。仕事はできる限り研究室で済ませた。片手間にミルを見つめていると、すぐに時間が溶けてしまう。そのぶんを睡眠時間や自由時間を削ることでどうにか帳尻を合わせた。そんな生活が当たり前になって、何年も経つ。
『レイド、お前……最後に寝たのはいつだ?』
酒をひたすらに飲ませてきたイースが、聞き慣れた問いを投げてきた。レイドは昔から睡眠を取らずに研究に明け暮れていたからだ。フードの奥の顔色なんて分かるわけもないのに、相も変わらず聡い男だ。
研究室の扉を開け、ふらつきながらレイドはどうにかいつもの特等席に辿り着く。
——最後に寝たのは三日前だったか?
ミルに任せた依頼が、僅かに難しいものだったから。野営の必要もあった。彼女が無防備に寝ている間、レイドは危険に目を光らせている必要があった。
……いや。
それはただの言い訳だ。
本当はレイドはその不安を解決するだけの魔法を知っていた。単純に結界を張ってもいいし、使い魔を潜ませて代わりに監視させてもいい。他にも手は無数にある。
「……ただ、君の姿をずっと見ていたかった……」
酒でぼやけた頭を無理やり動かし、レイドはひとりごちる。
「あと魔導研に急かされてる論文の査読の締切が近かったし、個人的に考えたい魔法があったし、それに……」
時間が足りない、と彼は思う。
いや、足りないのは自分自身か。
愛しの少女のことだけを考えていられる自分と、魔法に好きなだけ没頭できる自分——二人いればいいのに。
ひとつに括った柔らかい黒髪を解き、賢者はため息を吐き出した。自分の吐息が酒臭い。不快だ。思いのほか酒が回っている。不健康な色をした肌も、今ばかりは酒気を帯びて赤らんでいた。
被りっぱなしだったローブのフードを背中に追いやり、ようやくレイドは壁面にいつもの遠見の魔法を展開した。
もう夜も深い。いつもの君ならば寝ている時間だ。宿で愛らしい寝息を立てているのを確認したら、今夜は久々に眠ろうか——
「………………は?」
そんなことをぼんやりと考えていたレイドは、次の瞬間、眠たげにとろけていた目を見開いたのだった。




