【02】
「と……」
というか、ミルは一体何を言おうとしているんだ。この反応の理由が賢者には何も分からず、身を硬くして待つしかできない。
やがて、ミルは意を決したように顔を上げた。
今すぐに抱き寄せられるような距離で。
縋るような瞳で、レイドだけを見つめてくる。
「……——匿名さん?」
ミルは言った。語尾は僅かに上がっていたものの、確信を伴う響きがそこにはあった。その一瞬、レイドだけでなく、野次馬たちの息まで止まった。
「————」
今度こそ完全にフリーズしたレイドである。
匿名さんとは、数年にわたりずっと匿名の指名依頼をミルに出し続ける謎の依頼人のことを指した呼び名だ。
レイドは更なる言い訳を探したが、すぐに組み立てられない。
「この新しい手帳の字。私知ってるよ。いつも私に匿名の採取依頼をくれる人の字だ」
…………本当に、すっかり失念していた。なんと愚かなミスだろう。筆跡は人によって個性が出る。依頼書と手帳の筆跡が似ていることから正体を見破られる可能性について、レイドはさっぱり思い至らなかった。高熱のせいかもしれない。
「…………いっ、いや、何のことだか?」
だが、引けない。ここで素直に認めるわけにはならない。レイドは口の端が引き攣りそうになりながら、起死回生を試みた。
「僕にはさっぱり分からないが? 昔に比べて手本のように美しい字になったから、個性が抜け落ちたんだろう。理想とされる字の形は決まっているし、他に似た字を書く人間がいたって——」
……言い訳が、苦しい。その自覚はあった。
「私が何年匿名さんの依頼を受け続けてると思ってるのさ。……この字だけは、見間違えないよ」
はっちゃんはこの話題に興味が無さそうに入り口付近を眺めているが、ミルはじぃっと真剣な顔でレイドを見続けている。
「なんで隠すの?」
「ご、誤解、だ。誤解だってば」
つい、一歩足を引いた。するとミルは逃げるなとばかりに、揺れた黒い布地をギュっと掴んだのだ。地下に連れて行った時にもそうだったが、ミルはすぐにレイドの外套を掴む。心臓が鷲掴みにされてしまうから切実にやめてほしいが、やめてほしくもなくて、レイドは今回も文句を言えずされるがままである。
「……ずっと、不思議だったんだよ。私が珍しい素材を採取できることを知ってるのなんて、自分の他には……私に採取の仕方を教えて、あの手帳をくれたおじさんくらいなのに、どこでその事を知ったんだろうって」
「〜〜っ」
「……おじさん、だったんだね」
もう何を言っても無駄だ。ミルはもう、黒衣の魔法使いが匿名の依頼人であると確信している。
何も言えないレイドを見つめる愛らしい顔が、不意に歪んだ。
「……どうして?」
声が微かに震えている。その瞳はどこか潤んで、下げた眉を寄せ——今にも泣いてしまいそうに見えたのに、しかしミルは笑った。ふにゃりと、泣くのを我慢しているのを隠しきれていない、下手くそな笑顔だった。
「なんでおじさんは、この前も、四年前のあの日も、私のこと助けてくれるの……? いつもの依頼だって……私のこと、経済的に助けてくれてたってことだよね?」
……涙は流れていないが、レイドが、ミルを泣かせた。いまの彼女の胸の内にあるのが、喜びなのか、悲しみなのか、それ以外の何かなのか。レイドには推し量れない。
けれどそんな顔はしてほしくなかった。
……そんな顔をさせないために、レイドは彼女を守り続けていたはずなのに。
「……、君は……」
しかし、何故助けるのかなんて言えるわけもない。そもそもレイドには胸の裡に渦巻くこの感情を上手く言語化できる気がしないのだ。
理路整然とした理由などないんだ、これに。好き、だなんて言葉では足りない。愛ならば近い気もするが、そんな言葉を向けられたならきっとミルは困ってしまうだろう。愛しい君を困らせるような男にはなりたくない。
だから、なるべくミルが納得してくれるよう——そしてこの激情を、受け取りやすい言葉に包んで隠さなければ。
「——君は、僕を救った。僕の命の恩人だ」
嘘ではない。
「……僕は君に危ないことはしてほしくない」
嘘では、ない。
「…………でも、君は冒険者になった。なら僕が依頼を出せばいいかと思ってね」
嘘では……ない。
——君を愛しているからだ、と。
本来はたった一言で済む説明なのに、レイドにはそれを口にする蛮勇を選べない。
「命の恩人、って……」
情けないレイドの告白を受け、ミルは戸惑いに顔を染めた。
「あの時のことなら、結局は私の方がおじさんに助けてもらったよ。そもそもお礼なら、手帳をもう貰ってるのに。……なのに、匿名さんはもう何年も私に依頼し続けてくれてるって、私が貰いすぎてて、なんか変だよ……?」
「そ、れは……」
「恩返しだって言うなら、いくら何でも多すぎるよ」
ミルの目を、真っ直ぐに見ることができない。
「……というか! そんなのずるい!」
「えっ?」
気まずく口を噤んでいると、ミルがぐいっとローブを引っ張って、突然拗ねたような声を出すではないか。さっきまで泣きそうな顔をしていたのに、何故か今は怒っているようにも見えた。素っ頓狂な声を上げたレイドへ、ミルは可愛らしく唇を尖らせてこんなことを言う。
「おじさんはあの時もこの前も私からのお礼は何も受け取ってくれなかったのに、自分だけ内緒で私にいっぱいお礼してるのずるいよ」
「そ、そう……かい? いや、だが……」
「確かに? 私の稼ぎの出所がぜーんぶおじさんだったなら、謝礼金を拒否するのは今ならそうだよねって思うけどさ……。なら採取は? 建前にしては毎回色んな素材を求めてたんだし、これは本当に必要なんじゃないの? なんでこの前それまで断ったのさ。私、おじさんのためなら全然タダで採ってくるのに!」
「い、いや、それじゃあミルちゃんの生活が立ち行かなくなるだろう……?」
「私の懐事情を心配しすぎだよおじさん!」
「そりゃあするだろう」
「なんで!」
「ミルちゃんははっちゃんの保護者になったんだから、今後は二人分の生活費が必要になってくる。この事実をちゃんと理解しているかい。倍だよ、倍。どこに無償の奉仕をする時間があるのか言ってごらんよ」
「うっ……」
「——わたしのこと呼んだ?」
名前を聞きつけて、ずっと他所に気を取られていたはっちゃんが混ざってくる。
「そうだった。あのね、あのね。黒い人」
「何かな」
「はっちゃん、ハナちゃんになったの。ミルに新しい名前もらったんだ。これから、そう呼んでもいいよ」
「ほう。ハナ。いい名じゃないか」
「えへへ。うん。いいでしょー」
全く、このホムンクルスときたら、ミルから直々にふたつも贈り物をされて羨ましい限りである。新たな名前を自慢して満足したのか、また別の方向を眺め出したハナのことは置くとして。
「という訳でだね、ミルちゃん」レイドはこのまま有耶無耶にできないものかと畳み掛けた。
「悪いことは言わないから、今後も素直に僕からの援助を受けときなさい」
「援助って言った!」
「そもそも、そんなにもミルちゃんは僕への恩返しがしたいのかい」
「そりゃしたいよ! 昔も、この前も、というか私の知らないとこでも、いーーーーっぱいお世話になったのに!」
「……なら、君は元気で過ごしてなさいね」
「へ?」
「ああ、それに幸せでいてくれないと。怪我もしないでおくれ。病気もなるべく気をつけて。君が笑顔で過ごせるのなら、僕はそれでいいんだから」
「…………っ」
「……まあ、怪我をしたなら僕が治してあげるから、死なないように、というのが正しいか。即死でなければ何とかしてみせるよ」
「〜〜、お、おじさん、は、私のなんなのさ……」
本音をつらつら並べるうちに、ミルの顔は真っ赤に染まっていた。ずっとレイドを見上げていた瞳は明後日の方に逸らされて、唇をキュッと窄めている。その姿があまりにも可愛くて、レイドもフードの下で赤面し、目を逸らした。
「治してくれるって……わ、私は、おじさんのこと名前すらよく知らないのに、連絡のしようがないじゃんか……」
「…………ふむ」
「ミル、ミル」とはっちゃん——改め、ハナがミルの外套を引っ張った。
「黒い人、ちゃんと名前あるよ。黒い人は〝おじさん〟」
「おじさんが名前なわけあるか」
思わずツッコミを入れてしまうと、緑の瞳がきょとんとレイドを見上げてくる。
「でも、ミルずっとおじさんって言ってた」
「それはね、このおじさんが何度聞いても名前を教えてくれないからで……」
「なんで?」
「なんでだろうね〜……?」
どこか羞恥の残る顔でチラリと不満げにレイドを一瞥したミルを、直視できない。だって今まで見たことのない表情だ。可愛い。
「よ、呼び名なんて、今ので事足りてるだろう?」
「いつもこう言うんだよね、このおじさん」
「じゃあミルがつけてあげたら?」
「「えっ」」
意図せず、レイドとミルの声が重なった。
「わたしにお名前つけてくれたみたいに」
「そ——それは、」
悪くないかもしれない、と率直にレイドは思った。
しかしミルは不満げに唇を尖らせる。
「私が呼びたいのはおじさんの本名なんだけどなあ……」
「う」
——そもそも、どうして己は彼女に名を隠しているんだったか。
レイドはふと、そんな疑問に行き当たった。
そう、確か……最初は単純に、警戒していたからだ。怪しい他人に名を渡すような真似をしない。だから答えなかった。先日問われた時は、そんな問答をしている余裕があまりなかったし、つい流してしまったのだったか。
(……あれ。別に僕、ミルちゃんに名前を呼んでもらってもいいんじゃ)
匿名の依頼主が黒衣の魔法使いであることはすでに見破られてしまった。黒衣の中身がレイド=アルヴァンだと知られて起き得る問題は何がある? ——賢者だとバレる可能性がある。賢者と知れば、ミルはこんな気安い態度を取ってくれなくなるかもしれない。それは嫌だ。だが、レイドという名自体は珍しくない。
家名だけ伏せれば、或いは——
「…………っ」
ごくりと、喉が鳴る。
…………透き通った声で、名を、呼ばれてみたい。
「ぼ……僕の名は……」
「!」
「教えてくれるのっ?」と、ミルはパッと顔を明るくした。無意識なのか、ただでさえ近かった距離をさらに詰められて——もう、レイドは限界だった。
「き、君がもうちょっと採取の腕を磨いたら教えてあげるよ……」
————逃げた。情けない。くそだ。でも、耐えられなかった。ただでさえ気絶しそうになっているこの距離で名前まで呼ばれてみろ、死んでしまう。
「えええ! 何それ!」
案の定、ミルは納得してくれていない。
「というか、採取の腕を磨いたらって……どのくらい? どうやって判定するの?」
「そう、だね……まあ、ミルちゃんはもう……だいぶ、かなり優秀な採取師ではあるんだが……何せこの僕が直々に教えたわけだし……申し分のない才もあるし……とても頑張り屋ないい子で……下手な商人に頼むよりずっと品質のいい素材を納品してくれて……既に一人前ではあるが……」
「い、言ってることめちゃくちゃだよおじさん……!」
「ま、まあ、そのうち……いつかね、いつか教えてあげるから……」
「——じゃあ、また会える?」
しどろもどろに誤魔化すレイドのローブを、さらに強く引き。ミルは不意に、剣を握る時のような凛々しい表情を浮かべて見せた。
「名前が無理なら、きっと家の場所も教えてもらえないよね?」
「……そ、そう、だね……」
何だその顔は。知ってる。知ってはいるが、はたから見ているのと、実際に向けられるのは話が別だ。可愛いのに凛々しくて、胸が苦しい。
「なら、おじさんから会いに来てくれる?」
「————」
「宿はこの前教えたから、来れるよね?」
「…………っ」
「はっちゃんの件で相談したい事もあるし、何より……」
そこで一度言葉を切り。
ミルは、ジッとレイドの顔を見上げた。
彼女からはフードでよく見えないだろうに、何故なのかレイドは正確に目を合わせられているような錯覚を覚えた。強い視線がそこにある。空色の瞳に煌めく光が、あまりに眩しすぎた。
「——私が、おじさんにもっと会いたい」
ぶれない声で断言され、ヒュッと喉が鳴った。
「私の幸せがおじさんの望みなら、ちゃんと喜ばせに来てくれるよね?」
「〜〜っ」
「会いに来てくれるって約束してくれないと、もうおじさんの依頼受けないよ」
殺し文句だけでは済まずに脅してまでくるなんて——
(さっきから僕の知らないミルちゃんばかりだ……っ)
興奮のあまり眩暈がしてきた。意識しないと呼吸も荒くなってしまいそうだ。もしかして熱がぶり返してきているのではないか? 賢者は己の体調を疑い始めた。
「おじさん」
不意にミルは踵を持ち上げ、背伸びをした。顔が近付く。彼女の手が伸びてくる。白い指先が、黒いローブの襟元を、ぐいと引っ張る。
「……返事は?」
「——っ、わ、わか、った。会いに行く。会いに行くから……!」
たまらずレイドが折れると、ミルはパッとローブから手を離し、つま先立ちをやめた。なんと強引なコミュニケーションだろうか。
「うん。……ありがとう」
知らない一面を見られただけでなく、会いに行く口実まで貰えてしまった——
キャパオーバーの幸福にレイドが小さく震えていると、不意にミルがローブを掴む手を緩めた。格好良くすらあった凛々しい顔から一転し、ミルの顔が憂いを帯びる。
「……まあ、そうは言っても今後はっちゃんとパーティーを組むから、難易度的に考えておじさんの依頼を今までの頻度で受けるのはちょっと難しくなってくるんだけど……」
「!」
「なるべくおじさんの依頼を優先して受けたいけど、まだ手探りだし、前より時間がかかると思う。休息や準備の時間もしっかり取ってあげたいし……。だから素材が必要なら、ちゃんと他の人にも依頼出したりしてね……ごめんね、おじさん……」
「……その心配は要らないよ」
「……え?」
「僕がここにいるのは野暮用だと言ったが——実を言うとだね、そう思って依頼内容を修正しにきたんだ。これをごらんよ、彼女を連れていても問題がない程度の難度に調整してあるだろう?」
カウンターに置きっぱなしにしていた新しい依頼書の束から上の数枚を手に取って、レイドは必死にアピールした。胡乱な顔で依頼書を受け取ったミルの顔が、紙を捲るごと、どんどん困り顔に変わっていく。
「た、確かにどれも近場で採れる素材だし、場所自体も危険な魔物が少ないとこだ……でも、その割に報酬が前より高くない……?」
「いや? 市場価格から見ても適正だよ。……さっきも言ったが、これからの君はハナと二人暮らしになるからね。このくらいは必要だろう」
「えーっと。おじさんは本格的に私の何なのかな……?」
「…………。何だろうね?」
「なんでおじさんが聞くのさ!」
落とし所の見えない会話を続けていると、ハナが再びミルの外套を引っ張った。
「——ミル、ミル。暇だよ。まだお話し終わんない?」
「うっ。ごめんねはっちゃん……!」
「もぐもぐ〜する。はやくお芋食べたい」
「お腹減っちゃった? ……うーん。手続きは時間かかるし、一回出直そうかなあ」
「黒い人も一緒にもぐもぐ〜しよ。お芋だよ。ほかほかだよ」
「お芋……? いや僕は……」
……そういえば最後にまともな食事を取ったのはいつだったか。薬草を煎じて溶かした汁なら飲んでいたが、固形物となると——
「早く」
グイグイと外套を引っ張られ、ミルは焦った様子でカウンターに依頼書を置いた。黒革の手帳を懐に仕舞い、両手を完全にあけると、ハナの片手を捕まえる。
ミルと手を繋いだハナは満足げに笑い、そして「早く」と今度はレイドを見上げてくるではないか。
レイドが戸惑って幼いホムンクルスを見下ろすと、少女は痺れを切らしたようにレイドのローブの裾を掴んだ。
「黒い人もミルのこと大好きなんだよね? わたしとお揃いだ」
口角を持ち上げてニッと笑った顔の自然なこと。まったく、これが魔法で作られた生命だとは思えない。
「ミルが言ってた。ごはんは楽しくもぐもぐ〜するのがいいんだって。好きな人と一緒なら、楽しいもんね」
「あっ、こら。あまり引っ張らないでくれないか……」
ここから逃げる算段は、賢者といえどもレイドには思い浮かばない。「おじさんも一緒だと私は嬉しいけど、おじさんはどう?」なんて悪戯っぽい笑顔を見せられてはもう駄目だ。
肩をすくめたレイドは、自分達のやり取りを一部始終眺めていた実に暇なギルドマスターを一瞥した。
「……そういうわけでね。例の件については、後日改めて様子を見に来る」
「ああ。レ——貴殿の都合で大丈夫だ」
……未だに集まる好奇の視線を思うと、次に来る時が今から憂鬱だ。そうは思うが、ミルのためなら仕方がない。
そうして、レイドはミルとハナに引っ張られてギルドを後にする。
「おじさんは何食べたい?」
「君たちの好きな食べ物なら、なんでも」
「お芋! お芋がいい!」
そう言って走り出したハナの片手はミルの手を、もう片手はレイドのローブを掴んでいるものだから、レイドは数年ぶりに走らされることになったのだった。




