ep.01 賢者は見ている
走る。走る。小柄な少女はただ走る。息を切らせてひたすらに。
揺れる背中を銀色の殺意が追いかけてくる。
苔の生えた木の根を跨ぎ、太い枝から吊り下がった蔓を視界に入れる。グッと足に力を入れ、高く跳ぶ。伸ばした指先が滑らかな蔓を掴み、華奢な体が宙に浮く。少女はそのまま器用に蔓を使って他の枝へと飛び乗った。
四足を使い地を駆けていた魔物が、勢いをそのままに先へ行く。少しして、突如として視界から消えた獲物を探すかのように周辺をうろつき始めたのを、数メートル頭上で枝葉に身を隠しながらミルは息を潜めて観察した。
あれは銀血熊。白い毛並みは金属のように硬く、皮膚の下にはその名の通り銀色の血が流れるという上位種の魔物だ。まだ、勝てるような相手じゃない。本来ならこんな浅い森で出くわすような存在ではないはずなのだが——
『はぁっ……はあ、い、った……?』
少女は息を整えながら、遠ざかる銀の毛並みを眺めた。震える右手は背中にベルトで固定した剣の柄に回されたままだ。やがて魔物が視界から消えると、ようやく少女は深く息を吐き出し、剣から手を離したのだった。
——だが、彼女は気づいていない。捕食者が他にもいることを。ほど近くから、木陰の死角から、少女の無防備な背中をジッと見つめていることを。銀血熊が素直に遠ざかった理由が、そこにあることを。
逃げ回るうち、少女はとある魔物の縄張りに侵入していた。
それは木のうろを寝床にする魔物。固体を持たぬ捕食の粘菌——スライム。
魔物はずるずると地面を這う。進む道と色を同化させ、音を立てずに少しずつ、確かに少女の背後へ忍び寄っていく。
少女はまだ気付かない。すっかり気が抜けたのか、木の枝に腰掛けたままボディバッグから携帯水筒を取り出して水分補給なんかをしてくつろぎの体勢に入っていた。
「——あ〜あ。ミルちゃん、駄目じゃないか」
その姿を、何里も遠く離れた安全地帯から眺める黒髪の男が一人。
人間嫌いの賢者が住まう白亜の塔。その最上階にレイド=アルヴァンの研究室は存在する。
書類と本で埋め尽くされた室内は、壁一面に研究メモが貼られている。塔の主人は、唯一整頓された空間で机に向かい、頬杖をつきながら正面の壁を見据えていた。
正確には、壁に魔法で映し出した遠くの景色を、だ。
そこに映る少女の名はミル。王都でソロの冒険者をしている剣士だ。
ミルは今日、ある依頼を受けて植物採取のために星影の森へ足を運んでいた。
星影の森は比較的安全なフィールドだ。危険な魔物の目撃例は少ない。
——そりゃそうだ、と男は内心で思う。
目撃例を持って帰れるのは生還者だけだ。
あの森に巣食う脅威はアシッドスライム。
環境に合わせて色を変え、音を消して忍び寄る。しかも体内で強い酸を生成し、人も獣もまるごと溶かして栄養にする悪食だ。
「ん〜……ミルちゃんは、どうにも運が悪いよなあ。こういう確率の低いパターンをよく引き当てる」
レイドは低い声で呟きを落としながら、ミルに這い寄る危機を冷静に見つめた。
——スライムは剣士とは相性が悪い。むやみに斬ったところで意味はなく、透明化された核を正確に破壊しなければ死なない魔物。
さらにアシッドスライムの厄介さは、斬った破片が付着すれば酸が鎧ごと肉を溶かす点にある。
「…………まあ、いいか。今回は僕が全部やっちゃっても」
気だるい赤い瞳が見つめるのは、楽しげに足をぷらぷらさせて休む無邪気な少女剣士だけ。そのすぐ背後に迫るアシッドスライムが体を小刻みに震わせ酸を撒き散らす体勢に入るや否や、レイドの節張った指先が動いた。
人差し指を、一振り。
たったそれだけ。
——ミルの背後で、核は刹那のうちに破壊された。
アシッドスライムは命を失い、液体に変わった。内側に溜め込んだ酸がこぼれ落ち、芽吹いていた植物を灼き、地を汚した。
背後で行使された奇跡になんてつゆほども気づかぬまま、ミルは休憩を終えて枝から飛び降りた。
『さあ、日が落ちる前にお花を探さなきゃ!』
透き通った声が元気よく森に——そして遥か遠くの魔導塔の一室に響き渡る。実に可愛らしい声だ。レイドはこの声を一日に一回は聞かないと、うまく寝付けない。
だが、その声の愛らしさについて思考を巡らせる前に「あ」とレイドは声を漏らした。
「今の音量はまずいよ、ミルちゃん。銀血熊は耳敏い。気配にだって敏感だ……ああほら、戻ってきちゃったじゃないか」
「まあそんなうっかりさんなところも可愛いが……」と惚気つつ、レイドは次の魔法の準備に入った。
ガサガサと揺れる茂みにミルも気がついた。銀の毛並みが見えた時、少女の白い肌が青褪める。
ミルが逃走の判断を下すよりも、熊の突進の方が早かった。
『……っ』
死の予感。レイドの指先が再び動く。少女の周囲に魔力の障壁を展開し、まずは万が一の危機から守る。
ミルは咄嗟に横に跳んだ。間一髪のところで熊との衝突を避け、体勢を整えながら剣を引き抜く。熊が方向を転換して再度走り込んでくる前に、ミルの方から剣を構えて踏み込んだ。——だが、硬い金属音を響かせて銀の毛皮に弾かれる。まるで剣と剣がぶつかり合ったかのような手応えを得て、ミルの手が小さく震えた。
彼女の顔は蒼白を通り越し、その先にある死を予感していた。しかし、それを見守る賢者は違った。
「銀血熊の弱点は尻だ。尻の毛だけは柔らかいんだよなぁ。理由については諸説あるが、出産や排泄時に邪魔にならないよう進化したんじゃないかという説が有力なんだよ、ミルちゃん」
本人にはまるで聞こえていない無意味な解説。映像に向かって語りかけるのは、彼の癖だ。のんびりとした様子でレイドは再び指を振った。再び突進を仕掛けた熊の進行方向に、魔法の罠を張る。
銀血熊の鋭い鍵爪が地面を蹴った瞬間、その場の土がどろりと固さを失った。突如としてできたぬかるみに前足をとられた銀血熊が、勢いを殺せぬまま前方に転がる。盛大な一回転。呆然と震えていたミルにぶつからぬよう、レイドはさらに魔法でごく僅かな風を操り、熊が転がる軌道を逸らした。ミルの真横を通って転がった先でも、地面は不自然にぬかるんでいた。底なしの泥に頭から突っ込んだ熊の弱点が、無防備に晒されている。
このまま逃げたっていい。
だが、まだ戦う意思があるのなら、少女が狙う場所はそこしかない。
我に返った少女は剣を強く握り直し、振り向いた。そして強く地面を蹴る。すらりとした脚で跳躍し、構えた剣のきっさきは真っ直ぐに銀血熊の——尻を捉えていた。
「よしよ〜し、いい子だね。上出来だ、ミルちゃん」
一度でトドメを刺せはしなかったが、先ほどと違う柔らかな手応えに勝機を見出したのだろう。華奢な剣士は何度も剣を振り下ろした。人間ならば考えられぬ銀色の血飛沫が舞う。泥に顔を突っ込んだまま弱点を斬りつけられ——死因は果たして窒息だったのか失血死だったのかは不明だが。
ばたつかせていた手足が完全に沈黙したのを確認し、ミルは肩で息をしながら剣を下ろした。
『や……った? 倒せた……?』
恐る恐る死体に近寄り、完全に息の根が止まっているのを確認すると、ミルはへろへろと腰を抜かしてしまった。
『よかったあ……』
魔物の死体は人間からすれば素材の宝庫だ。冒険者ならば倒した魔物をその場で解体し、街へ持ち帰って換金するものだが——
『こんな大型の魔物の解体なんてしたことないや……』
ミルが普段相手にしているのはもっと小型の魔物たちだ。しかも、剣を通さぬ毛皮なんてどうやって剥げばいいのか分からない。途方に暮れていると、複数人の足音がミルの元に近づいてきていた。
『これは……!』
現れたのは剣士と魔法使いの二人組だった。倒された銀血熊を見て、双方目を丸くしている。
『君が倒したのか? 一人で⁉︎』
『この森の奥にある水晶洞を探索中にこいつと会って戦闘になったんだけど、敵いそうにないから撤退したんだ。でも洞窟の外まで追ってきて……』
話によれば、星影の森に銀血熊が現れた原因を作った張本人こそが彼らであるようだ。ソロの、それも可憐な少女剣士が一人で撃退せしめたことにひどく驚いた様子だったが、ミルは「えへへ」と曖昧に笑うのみである。
『偶然なんです。ほら、この熊、ぬかるみに嵌っているでしょう? それで隙が生まれて……』
『本当だ。……雨なんて最近降ったかな』
『元は沼地だったのかしら』
『私って運が良くて、いつも九死に一生を得るというか……だから今回も、運が良かっただけなんです』
——運が良い?
——否。彼女の自認と現実は違う。
むしろミルは運が悪い方だ。
ミルの自己認識を歪めているのは、暇さえあれば遠見の魔法で彼女の生活を覗き見るストーカーの存在である。
レイドは彼女の危機を何度も陰ながら守ってきた。
そして、これからもずっと。
時間と都合が許す限り、彼はミルを見守り続けるつもりだ。
『あの、良かったら解体を手伝ってもらえませんか? 私、解体できなくて困ってたんです。素材もお分けしますから』
『元はと言えば俺たちが原因だから、喜んで手伝うよ』
賢者に見守られているなんて一切知らぬ少女は、楽しげにゆきずりの冒険者たちと解体作業を始めている。
「……………………」
少女の危機は去ったというのに、先程まで機嫌よく映像を眺めていたレイドの顔は明らかに曇っていた。
「近いだろ、おい……」
呟く声は、今日一番に低い。
「いま、僕の可愛いミルちゃんと顔面の距離が三十センチ程度しかなかった。どういう了見なんだあの男……」
ひどい顔で壁面を睨みつけながら、賢者と呼ばれる大魔法使いは暫くのあいだ嫉妬による殺人衝動を抑えつけるのに苦労した。ミルがもしも他人の痛みを気にしない少女でなければ、悩まず手を下していただろうが——現実の彼女は人が傷つくのを好まぬ善良さの持ち主だ。
愛しのミルちゃんを、他ならぬ己の行いで傷つけてはならない。
レイドにだって、そのくらいの分別は、あるのだ。




