2部 第2話
解析という言葉には、二種類の匂いがある。
ひとつは医療の匂いだ。身体の異常を要素へ分解し、原因を特定し、治療へ繋げる。治療は善の顔をしている。善の顔は暴力を隠す。隠された暴力は、患者の同意を必要としない。必要としない同意は、制度の完成形だ。
もうひとつは統治の匂いだ。社会の異常を要素へ分解し、原因を特定し、矯正へ繋げる。矯正もまた善の顔をしている。善の顔をした矯正は、反抗を“症状”として扱う。症状として扱われた反抗は、反抗ではなくなる。反抗が反抗でなくなると、世界は滑らかに回り続ける。
隔離室の外で、その二つの匂いが混ざっていた。
扉の小窓越しに、白衣が行き交うのが見える。解析班。腕に細い端末を巻き、音を立てずに歩く。地底の歩き方は、身体の振る舞いまで統一する。統一は予測を生む。予測は事故を減らす。事故が減れば死が減る。死が減れば善が増える。この公式は、今も壁の向こうで機械のように回っている。
僕の端末は、もう僕のものではない。
地底で個人所有という概念は、いくつかの例外を除いて存在しない。所有は独立を生む。独立は制度の外を作る。制度の外は危険だ。危険は死だ。だから所有は削られる。削られた結果として、端末の“預かり”は自然な手続きになる。自然な手続きとして暴力が実行される。実行される暴力は、暴力として扱われない。
小窓の外で、監督官が立ち止まった。彼女は僕を見ない。見る必要がない。ここにいる時点で僕は手続きの中にいる。手続きの中の人間は、数字で把握できる。
監督官の隣に、白衣の青年がいる。昨日の青年。第四世代の匂いがする。匂いというのは比喩だ。地底の匂いは一定値の空気に消されている。だが比喩は、比喩として生き残る。比喩は地上で強くなる。地上で強くなった比喩を僕は地底へ持ち帰ってしまった。
扉が開く。
監督官が言う。
「解析室へ移送する」
移送。人間を物品のように扱う言葉。地底ではそれが普通だ。普通であることが恐ろしい。普通の恐ろしさは気づきにくい。気づきにくい恐ろしさは、人生の形を変える。変わった人生は、それが変わったと本人が気づく頃には取り返しがつかない。
僕は立ち上がり、手首の拘束具を見た。拘束具は柔らかい素材で作られている。柔らかい拘束具は痛くない。痛くない拘束は拘束に見えにくい。見えにくい拘束は抵抗を減らす。抵抗が減れば事故が減る。事故が減れば善が増える。善のための拘束。地底の愛する構図だ。
廊下を歩く。壁は白い。光は一定。空調は一定。一定の世界は心を一定にする。一定の心は揺れない。揺れない心は疑わない。疑わない心は従う。従う心は生き残る。生き残ることが善である。
解析室の前で、僕は一瞬だけ足を止めた。扉の向こうから音が漏れる。低い機械音。端末同士が通信する音。音は滑らかで、地上の雑音とは違う。雑音は情報だった。滑らかな音も情報だが、その情報は僕の自由ではなく制度の自由のために使われる。
扉が開く。
部屋は白ではなく灰白だった。地底は重要な部屋ほど白を避ける。白は清潔で、清潔は医療の顔をする。統治の中枢は医療に見えてはいけない。医療に見えすぎる統治は、統治として自覚される。自覚された統治は抵抗を生む。抵抗は事故を生む。事故は死を生む。死は悪だ。だから統治は医療の陰に隠れる。
室内には大きな表示板がある。板に映し出されているのは、僕の録音データの波形ではない。波形は単なる音だ。地底が欲しいのは音ではなく意味だ。意味は数に変換される。数になった意味は政策になる。
板には、単語が浮かんでいた。
査定。点庫。配給。均衡。繰上げ。自己投入。観衆同期。象徴性。
地上で見た言葉が、地底の空気の中で整列している。整列した言葉は怖い。整列は軍隊の動きだ。軍隊は戦争の装置だ。戦争の装置がここにある。地底は戦争から逃げたはずなのに、戦争の構造がここに生まれている。構造は逃げられない。逃げられないものは、形を変えて追いかけてくる。
白衣の青年が僕の前に立った。名札はない。名を出さないのは地底の礼儀だ。名を出すと個人になる。個人は危険だ。
青年が言う。
「あなたの言語記録は、すでに一次解析が終わっています」
一次解析。物質の処理みたいな言い方だ。言葉が物質になる。物質になった言葉は燃えるはずだ。燃えれば灰になる。灰になれば管理できない。だが地底は燃えない言葉を作る。燃えない言葉は端末とログに残る。残るものは管理できる。管理できるものは善になる。
監督官が言う。
「地上の制度は、再現可能だ」
再現可能。可能という言葉が未来を確定させる。確定は帳簿がする。帳簿は燃えたのに、ここには燃えない帳簿がある。解析室の表示板が帳簿になる。
僕は言った。
「再現してどうする」
監督官が答える。
「整える」
整える。救済の顔。支配の骨格。
「地上の点数制度は、資源配分のアルゴリズムだ。アルゴリズムは置換できる。死を通貨にしているなら、生存を通貨に置換すれば良い」
生存を通貨に置換する。言い方は整っている。整っているから恐ろしい。地上の死が通貨なら、地底の生も通貨になる。通貨になった生は、配分される。配分される生は、権力になる。権力は制度になる。制度は人間を薄くする。薄くなった人間は、死なないが生きてもいない。
白衣の青年が、板の表示を切り替えた。
「言語記録から、制度の最小単位を抽出しました」
板に、新しい図が出る。円と矢印。循環図。地上で僕が頭の中に描いた循環が、ここでは図として描かれている。
――査定(死の生産)
――点庫(通貨化)
――配給(生活維持)
――貸借(未来拘束)
――戦線(死の需要)
――候補者(供給)
矢印が繋がっている。閉じている。閉じた循環は強い。強い循環は文明になる。文明は戦争になる。戦争は文明になる。核戦争後に文明が死ななかったのは、文明が循環だからだ。循環は止めにくい。
青年が続ける。
「閉じた循環を開くには、外部入力が必要です。地底は外部入力になり得ます」
外部入力。外部入力が救済になるという発想。救済が外部入力になる社会は、外部入力に依存する。依存は権力になる。権力は搾取になる。搾取は制度になる。制度は正当化される。正当化された搾取は善になる。善になった搾取は止まらない。
監督官が僕を見る。
「あなたは地上で帳簿を焼いた。それは循環の“確定装置”を破壊する行為だ。だが、地上には別の確定装置があるはずだ。何だ」
僕は答えられない。答えれば地底がそこを叩く。叩けば壊れる。壊れ方が正しいと止まらない。僕は正しい壊し方を見た。地上の点数板。配点。静粛度。完遂度。象徴性。観衆同期。正しい死が止まらない構造。それを正しく壊せば、正しい救済も止まらない。
僕は言った。
「分からない」
嘘だ。分からないのではない。言いたくない。言いたくないという意図は、地底では危険だ。意図は個人の領域だからだ。
監督官が言う。
「あなたの反応は記録されている。分からない、という発話が真か偽かは、生体反応で推定できる」
推定。推定という言葉は、断定を回避するための礼儀だ。だが礼儀としての推定は、実質的な断定と同じ効果を持つ。推定は裁定になる。裁定は隔離になる。隔離は薄める行為になる。
白衣の青年が小さく咳払いをした。わざとらしくない。だが意図がある。彼は監督官に対して、何かのタイミングを作っている。
青年が言う。
「監督官。一次解析の続きとして、地上の語彙が地底側の価値体系へどう翻訳されるか、モデルを回します。本人の同席は不要です」
不要。人間が不要になる瞬間。不要になると人間は道具になる。道具になれば扱える。扱えるものは最適化できる。最適化された人間は、もはや人間ではない。
監督官が少しだけ逡巡した。逡巡は誤差だ。誤差があるということは、彼女にも個人が残っている。
監督官が言う。
「よい。隔離室へ戻せ」
僕は拘束具をつけられ、再び廊下へ出る。歩きながら、白衣の青年が僕の隣へ寄る。監督官の視界の外側。制度の盲点。盲点は地上では生存の技術だ。地底でも盲点は存在する。存在する限り、制度は完全になれない。完全になれない制度には希望がある。
青年が小声で言う。
「あなた、帳簿を燃やしたと言いましたね」
僕は黙る。黙るのは肯定ではない。黙るのは、言葉を武器にしないための抵抗だ。
青年が続ける。
「燃やしたのは正しい。正しいと言うと矛盾します。でも……正しく壊すと止まらない、というあなたの言葉。僕は理解できます」
理解できる。理解者がいる。理解者がいるという事実は、感染が始まっていることだ。感染は危険だ。だが危険は生存を与えることもある。地上で僕はそれを学んだ。
青年が言う。
「地底は、地上を救う名目で地上を地底にします。それを止めるには、言語記録を“正しく提出しない”必要がある」
正しく提出しない。矛盾した命令。矛盾は個人を生む。個人が生まれると制度が揺らぐ。揺らぐ制度は、僕を潰すだろう。だが潰されないと何も変わらない。変わらない世界は滑らかで、滑らかな世界は死に似ている。
僕は言った。
「君は、何者だ」
青年は一瞬だけ目を伏せ、そして言った。
「解析班補助。第四世代。名前は……持っていません」
持っていません。名を持たないのは制度の完成だ。だが名を持たない者が名を欲しがったとき、それが亀裂になる。亀裂は漏れる。漏れたものが感染になる。
青年が言う。
「でも、あなたが地上で持ち帰った名を、僕も覚えました。リーヴ」
リーヴ。名が増殖していく。名が増殖すると、数字になりにくいものが増える。数字になりにくいものは管理しにくい。管理しにくいものは、制度の外に根を伸ばす。
隔離室の前で、青年は足を止めた。彼は監督官に向けて淡々とした表情を作り、僕に向けてほんの僅かに表情を揺らす。揺れは合図だ。合図は、制度の外で交わされる言語だ。
青年が最後に言う。
「次に会えるとき、あなたに選択肢を渡します。提出だけが道じゃない」
提出だけが道じゃない。道が複数あるという事実が、地底では危険だ。道が複数あると人間は選ぶ。選ぶと責任が生まれる。責任が生まれると個人が生まれる。個人が生まれると事故が起きる。事故は死だ。地底はそれを恐れる。恐れるからこそ、道を一本にしてきた。
隔離室の扉が閉まる。
僕は白い壁を見上げる。
死なないことが善である。
その善の下で、僕は地上の循環図を思い出す。点庫。配給。貸借。戦線。候補者。閉じた矢印。
地底は、あの矢印を“生存”に置換して開こうとしている。開くと言いながら、別の閉じ方を作るだけかもしれない。閉じ方が洗練されれば、止められなくなる。
僕は呼吸を数えない。
数えないまま、白衣の青年が言った“選択肢”を待つ。待つという行為が、僕の中で少しずつ、最優先を侵食していく。




