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満足死  作者: 竜造寺。(原案・編集) & ChatGPT(生成)
第1部
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第7話

 地底へ戻る昇降機の中は、奇妙に静かだった。


 静かさは地底の特権だ。静かさは管理の成果で、管理は安全の成果で、安全は善の成果だ。僕はその公式を何度も教え込まれてきた。だが今、静かさは慰めではなく責めに聞こえる。静かさは、地上で見た音の奔流を否定する。否定は暴力だ。暴力は地底の得意技だ。地底は暴力を優しさに偽装する。


 昇降機の扉が閉まり、圧が変わり、耳が鳴る。耳鳴りの中に、まだ発砲音が残っている気がした。残っているのは幻聴だろう。幻聴は心の異常として扱われ、治療対象になる。地底は異常を嫌う。異常は事故を呼ぶ。事故は死を呼ぶ。だが僕は思う。異常は、異常な環境に適応した結果でもある。地上は異常だった。だから僕の耳が異常になった。異常になった耳が、僕を生き残らせた。生き残らせた異常を治療するのは、どこかおかしい。


 胸ポケットの端末が重い。端末そのものの重さではない。録音が重い。録音は言語記録だ。地底が欲しがる“理解”だ。理解は武器になる。武器になった理解は救済を装う。救済の顔をした武器は、いつも狙いを外さない。


 昇降機の表示が変わる。第四層。帰還。帰還という言葉は、地底では正しい帰結として語られる。だが地上を見た僕にとって帰還は、単なる移動ではなく撤退だ。撤退は合理だが、合理には罪悪感が混じる。罪悪感は地底では不合理として削除される。削除されるものが増えれば増えるほど、人間は薄くなる。


 扉が開く。灰白い廊下。無臭。一定温度。一定照度。規定値の風。


 空気が軽い。軽い空気は肺に優しい。優しさは善の顔をしている。僕はその顔に、いま笑えない。


 入口の先に監督官が立っていた。灰色の衣服。抑制された表情。目だけが、人間としてそこにいる。目は管理しにくい。管理しにくいものほど監視される。監督官は監視の体現だ。


「帰還を確認」


 彼女はそう言った。労いではなく確認。確認は制度語彙だ。制度語彙は個人を薄める。薄まった個人は扱いやすい。扱いやすい個人は事故を起こしにくい。事故が減れば死が減る。死が減れば善が増える。地底は善を増やすために、人間を薄める。


 僕は防護服を脱ぐ手順に従った。脱ぐ、というより剥がされるに近い。外部と触れたものは隔離される。隔離は境界の倫理だ。境界の内側だけが善で、外側は危険だ。だが僕は外側で生きた。外側で生きた僕は、いま内側に戻ってきている。戻ってきた僕は善なのか危険なのか。境界の倫理は、例外を処理できない。だから例外は、数字に還元される。


 検査。洗浄。線量測定。血液採取。精神状態の評価。恐怖指数。睡眠深度。ホルモン濃度。


 測定されるたびに、地上が遠ざかる。遠ざかることで安心が生まれるはずなのに、僕は逆に息が詰まる。息が詰まるのは、ここが安全だからだ。安全すぎる場所は、息を奪う。奪われる息は、自由の代わりに与えられたものだ。与えられたものは、いつでも取り上げられる。


 監督官は僕を小さな面談室へ導いた。面談室は白い。灰白ではなく、より白い。白は清潔だが、同時に監視カメラが目立つ。目立つ監視は、逆に監視を背景にする。背景になった監視は恐ろしくない。恐ろしくない監視は、人間を従順にする。


 監督官が座り、僕に座るよう促す。


「報告」


 短い言葉。短い言葉は命令だ。命令は責任の転嫁だ。責任が転嫁されれば個人は楽になる。楽になれば従う。従えば制度が続く。制度が続けば安全が続く。安全が続けば死なない。死ななければ善が続く。


 僕は端末を取り出し、机の上に置いた。置く動作が、僕の中で何かを確定させる。確定は帳簿がする。帳簿は燃えたはずなのに、地底は別の場所で確定を作れる。確定を作れる場所が制度だ。


「言語記録、取得」


 監督官が言う。感情がない。感情がない声は正しい。正しい声は反論を許さない。


 僕は言った。


「帳簿は……燃えた」


 監督官の眉がほんの僅かに動いた。誤差。誤差は不安の兆候だ。監督官は不安を見せないよう訓練されている。だが不安は、情報に対する正常反応でもある。情報が予測と違うと不安が出る。予測が外れると制度が揺らぐ。揺らぐ制度は死を呼ぶ。だから彼女は不安を嫌う。嫌うが、出てしまう。


「燃えた……。あなたの判断か」


「僕の判断だ」


 僕はそう言った。言ってしまった。自分の判断だと言うのは、地底では危険な発言だ。判断は個人の領域だからだ。個人の領域は管理しにくい。管理しにくい領域は事故を呼ぶ。事故は死だ。だから地底は判断を制度へ委ねさせる。だが僕は委ねなかった。委ねなかったという事実が、僕を例外にする。例外は隔離されるか、修正される。


 監督官は沈黙し、端末を見た。見た、と言っても見るのは僕だ。彼女は監視の目で、僕の表情と声と呼吸を測っている。測ることで管理できると信じている。


「理由」


 監督官が言う。理由を求めるのは地底の癖だ。理由があれば管理できる。理由が分かれば矯正できる。矯正できれば安全が保てる。安全が保てれば善が続く。


 僕は呼吸を数えた。一、二、三。数えたあと、言った。


「帳簿を持ち帰れば、地底は地上を整える。整えるのは救済に見える。でも……救済の形で、地上を地底に変える」


 監督官は目を細めた。


「地上を地底に変えることは悪か」


 悪。地底では悪は事故のことだ。悪は意図ではなく結果のことだ。意図を問題にすると、個人が生まれてしまう。個人が生まれると制度が揺らぐ。だから地底は意図を嫌い、結果を語る。結果は数字になる。数字は管理できる。


 僕は言った。


「悪かどうかは分からない。でも……止まらなくなる。正しい救済は止まらない。正しい死が止まらないみたいに」


 監督官の指が机の上で一度だけ動いた。無意識。無意識が出るとき、人間は制度から少し外へ出る。監督官も人間だ。人間である限り、外へ出る瞬間がある。外へ出た瞬間にしか、本当の会話はできない。


 監督官は言った。


「あなたは地上で、何を見た」


 質問ではない。問いかけの形をした命令だ。だが彼女の声には、ほんの少しだけ個人が混じっていた。興味。恐れ。あるいは渇き。地底は渇きを嫌う。渇きは欲望だ。欲望は事故を呼ぶ。事故は死だ。だが不老社会ほど渇きは消えない。終わりがないからだ。終わりがないと、満たされた感覚が薄まる。薄まった満足は、常に次を欲しがる。


 僕は端末を指で弾いた。録音は提出できる。提出すれば地底は理解する。理解した地底は整える。整えた地底は完成に近づく。完成は正しさの極致だ。極致の正しさは止まらない。止まらない正しさは、人間を置き去りにする。


 僕は答えた。


「点数板。査定。配給。点庫総帳。死が通貨になっていて、通貨が未来を縛っていて、縛られた未来がまた死を生む」


 監督官は目を伏せた。伏せた目は、制度の外を想像している目だ。想像は危険だ。想像は現実を変えたくなる。変えたくなると行動が起きる。行動は事故を呼ぶ。事故は死だ。だから地底は想像を嫌う。だが嫌っても、想像は消えない。消えない想像が、地底の地下水脈みたいに流れている。


 監督官は言った。


「言語記録を提出せよ。最優先だ」


 最優先。地底が人間を動かす呪文。最優先という言葉は、優先順位の存在を隠す。優先順位が隠されると、人間は選択しなくて済む。選択しなくて済む人間は楽だ。楽な人間は従う。従えば制度が続く。


 僕は沈黙した。沈黙は抵抗だ。抵抗は危険だ。危険は隔離を呼ぶ。


 監督官の声が少しだけ低くなる。


「……あなたは第四世代だ。あなたの生は長い。長い生は、事故に耐えられない」


 長い生。地底の祝福。だが今その祝福は脅しになる。長い生ほど、取り上げられるものが増える。取り上げられるものが増えるほど、人間は従う。従わせるために長い生を使う。生が道具になる瞬間だ。


 僕は言った。


「地上で、名前をもらった」


 監督官の目が上がる。


「名前……」


「リーヴ」


 僕は口にした。彼の名。彼の安売り。僕が持ち帰った唯一の固体。帳簿は灰になった。制度は灰になった。だが名だけは、燃えずに残った。名は数字になりにくい。数字になりにくいものは管理しにくい。管理しにくいものは地底が恐れる。恐れるものほど価値がある。


 監督官は言った。


「その名は、あなたに何を与えた」


 僕は答えた。


「最優先を、疑う理由」


 その瞬間、面談室の空気が変わった気がした。実際に変わったわけではない。温度も匂いも照度も規定値のままだ。変わったのは僕の認識だ。認識が変わると世界が変わる。世界が変わると制度が揺らぐ。揺らぐ制度は、個人を生む。個人が生まれると事故が起きる。事故は死だ。地底はそれを防ぎたい。だからこそ、僕の言葉は危険だ。


 監督官は沈黙し、次に淡々と言った。


「あなたの端末は一時預かりとする。解析が必要だ。あなたは隔離室へ」


 隔離。予想された処理。例外は隔離される。隔離は罰ではなく安全だと説明される。安全は善だ。善の名で隔離する。隔離された個人は薄まる。薄まった個人は戻る。戻った個人は従う。従えば制度が続く。


 僕は立ち上がった。抵抗はしない。抵抗は死を呼ぶ。死は地底では悪だ。僕はまだ地底の倫理から完全には自由ではない。自由ではないから、まだ生きている。


 廊下を歩く。両側の壁面に刻まれた言葉が視界に入る。


 死なないことが善である。


 僕はその文言を見て、地上の紙片を思い出す。


 満足のいく死を。


 二つの文言は、互いに否定し合っているようで、実は同じ機構を持っている。機構とは、個人を動かす装置だ。装置が正しさを供給し、正しさが行為を供給し、行為が制度を供給する。供給が止まらない限り、戦争も管理も終わらない。


 隔離室の前で、監督官が最後に言った。


「あなたは何も失っていない。地底はあなたを守る。最優先はあなたの生だ」


 最優先。僕はその言葉を聞き、胸の奥で、地上の灰が舞った気がした。灰は管理できない。管理できないものが、僕の中に入ってしまった。


 僕は小さく息を吸い、吐く。呼吸を数えない。


 数えないというのは、僕にとって小さな反抗だ。小さな反抗は、地底では大きな事故の芽だ。芽は摘まれる。摘まれる前に、芽は根を伸ばす必要がある。根を伸ばすには時間が要る。地底は時間がある。時間があることが、今は恐ろしい。


 扉が閉まる。


 白い部屋。無臭。一定温度。一定照度。規定値の風。


 僕は壁の言葉を見上げた。


 死なないことが善である。


 そして心の中で、別の文言を上書きした。


 ――最優先を疑え。


 それが僕が地上から持ち帰った、唯一の感染だった。

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