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満足死  作者: 竜造寺。(原案・編集) & ChatGPT(生成)
第1部
6/8

第6話

 僕が帳簿に手を伸ばした瞬間、時間の質が変わった。


 地底の時間は滑らかだ。滑らかさは管理の成果で、管理は安全の成果で、安全は善の成果だ。地上の時間は違う。時間は粒子になる。粒子になった時間は、ひとつひとつが刺さる。刺さる時間は選択を強制する。選択は責任を呼ぶ。責任は死を呼ぶ。だから地底は選択を嫌う。けれどいま僕は、選択を避けられない場所にいる。


 帳簿は思った以上に重い。紙の重さというより、そこに載っている制度の重さだ。制度は物理量になり得る。人間の肩に乗れば重さになる。人間の胸に乗れば圧になる。圧は息を浅くする。浅くなった息が僕の耳に聞こえる。僕はまた呼吸を数える。一、二、三。数えたところで軽くなるわけではない。数えるのは儀式だ。儀式は不安を薄める。薄めた不安で人は動ける。


 見張りが叫んだ。


「……奪う気か」


 僕は答えない。答える余裕はない。余裕は戦場では死ぬ。地上の会話は、言葉よりも速度で成立する。速度が倫理になる。遅い倫理は撃ち抜かれる。


 案内人が僕の前に出て、両手を上げた。降伏の形。降伏は地底では恥だが、地上では技術だ。技術は倫理に勝つ。勝った技術が倫理になる。


「落ち着け……。均衡が崩れる。帳簿が消えたら、次週の配給が止まる」


 案内人の声は冷静で、見張りに届く言葉を選んでいる。均衡。配給。次週。連盟の言語。連盟の言語を操れる者は、連盟の内部に近い。内部に近い者は、内部の外にも近い。境界を跨げる者は危険だ。地底なら隔離される。地上なら利用される。利用される者は消耗する。消耗した者は点になる。


 見張りのひとりが、銃口を案内人へ向けた。


「お前の口から均衡が出るのは、虫唾が走る……。連盟の犬か」


 犬。地底で犬はペットだ。地上で犬は比喩だ。比喩は暴力を正当化する。人間を犬にすれば、撃つことが楽になる。楽になることが制度の条件だ。制度は殺しを楽にすることで広がる。


 案内人は笑わずに言った。


「犬でもいい……。犬なら、群れが飢える前に吠える」


 吠える。忠誠と警告。地上では忠誠と警告が同居する。地底では忠誠は制度に向かい、警告はアラートに向かう。地上では両方が人間の喉から出る。喉から出る警告は、命がかかっている。


 僕は帳簿を抱え直した。背中へ回せない。背中に回せば両手が空くが、背中に回す動作は遅い。遅い動作は撃ち抜かれる。僕は片腕で帳簿を押さえ、もう片方の手で通路の壁を探った。壁に埃が付く。埃は放射線を運ぶ。運ぶという比喩は僕の身体に刺さる。刺さっても僕は動く。動かないと点になる。


 見張りのもうひとりが言った。


「防護服を脱がせろ。帳簿は点庫へ。こいつは候補者に繰上げだ」


 繰上げ。軽い単語。軽い単語で重いことを言う。軽い単語は残酷を軽くする。軽くした残酷は日常になる。日常になった残酷は、もう残酷に見えない。


 案内人が一歩踏み出した。


「繰上げは連盟の権限だ……。お前らは現場だ。現場は現場を守れ」


 現場。権限。役割の言語。彼は連盟の内部を知っている。内部を知っているのは危険だが、内部を知っているから今ここで僕が生きている。


 見張りが銃口を振る。銃口が僕に戻る。戻る銃口。戻る視線。戻る危険。戻る死。


 僕は思った。地底は死を外に追い出した。追い出した死は地上に溜まった。溜まった死は制度になった。制度になった死は、今、僕を点に換えようとしている。循環が閉じている。閉じた循環から逃げるには、循環のどこかを壊すしかない。壊すのは暴力だ。暴力は地底が嫌う。だが地上で暴力は避けられない。避けられないものは、いずれ善になる。善になった暴力は止まらない。


 案内人が突然、床へ手を伸ばした。小さな金属片。さっき投げた小石と同じ手口。しかし今度は、音を出すためではない。


 彼はそれを見張りの目へ投げつけた。


 目。目は管理しにくい。管理しにくいものは攻撃に弱い。地底でも同じだ。視覚を奪われると、人間は制度の外へ落ちる。制度の外へ落ちた人間は、ただの生き物に戻る。


 見張りが怯んだ一瞬、案内人が僕の腕を掴んだ。


「走れ……。今だ」


 僕は走った。


 通路は狭く、角が多い。角は見通しを奪う。見通しが奪われると、銃は有利を失う。銃は距離があるほど強い。距離がなければ、刃と同じになる。刃と同じになれば、身体能力と意思の強さが勝負になる。地底で身体能力と意思は管理される。地上で身体能力と意思は生存の核になる。


 背後で発砲音。壁が砕ける音。粉塵が舞う。粉塵は危険だ。危険は死だ。だが僕は走る。死の質がどうこうではなく、ただ走る。走る以外に選択がない。選択がない自由。それは自由ではない。けれど地底の自由よりは、少しだけ現実だ。


 僕らは出口へ出た。外の光が濁っているのに眩しい。眩しいのは瞳孔が地底仕様だからだ。地底仕様の身体が、地上に馴染んでいない。その馴染まなさが生存を削る。削るものがあるという事実が、僕を生き物に戻す。


「こっち……」


 案内人が瓦礫の間を縫う。僕はついていく。帳簿が肩を引っ張る。重い。重いというのは確かだ。確かさは、僕が今やっていることが取り返しのつかない行為だと教えてくる。


 僕らは小さな地下室へ滑り込んだ。腐った木材の匂い。湿気。ここは安全ではない。安全ではないが、追跡を一時的に切れる。切れる時間は選択を生む。選択を生む時間は、地底の管理が最も嫌うものだ。だが今の僕には、その嫌悪こそが必要だった。


 案内人が入口を塞ぎながら言った。


「帳簿を見せろ……」


 僕は床に帳簿を置いた。紙が鳴る。紙の鳴る音が、さっきの発砲音より怖い。発砲は外部の暴力だ。紙は内部の暴力だ。内部の暴力は、僕自身の倫理を壊す。


 案内人は帳簿を開き、数ページを素早くめくった。めくり方が慣れている。慣れているということは、初めてではない。初めてではないということは、彼がここへ僕を連れてきた理由が最初から帳簿にあったということだ。


「君……」案内人が言う。「これを地底へ持ち帰るな」


 僕は言った。


「地底はこれを欲しがってる。言語記録よりも、これの方が効く」


 案内人は首を横に振る。


「効くのが問題なんだ……。地底は効くものを使って“整える”。整えるってのは、つまり支配だ。君の地底は、地上を救うつもりで、地上を地底に変える」


 地底に変える。地上の死の制度を、生存の制度へ置換する。置換は救済に見える。だが救済に見える置換は、地上の倫理を別の形で存続させる可能性がある。点の制度が、別の通貨で再実装されるかもしれない。死の品質管理が、生存の品質管理に接続されるかもしれない。接続されれば、地底は完成する。完成した制度は、人間をさらに薄くする。薄くした人間は、もう人間ではない。僕はそれを想像して寒気がした。


「じゃあ……どうする」


 僕は聞いた。時間を稼ぐためではない。本当に、どうすればいいのか分からなかった。地底へ持ち帰れば、地底は地上を“改善”するだろう。改善は良いことだと教え込まれた。だが改善は、価値観を押し付けることにもなる。押し付ける価値観が善だと信じている者ほど、暴力的だ。


 案内人は答えた。


「燃やす」


 燃やす。紙を燃やす。情報を消す。消すのは暴力だ。だがこの制度は情報で成立している。帳簿がなければ点は確定できない。本当の数字が消えれば、点は幻になる。幻になった点は通貨になれない。通貨になれなければ配給が崩れる。配給が崩れれば社会が崩れる。社会が崩れれば戦争が変質する。変質した戦争は、満足死の制度を維持できないかもしれない。


「それは……大量の死を生む」


 僕は言った。言ってしまった。僕の中で、地底の倫理が最後の抵抗をしている。死を増やすことは悪だ。死を増やすことは絶対悪だ。だが地上の倫理は囁く。今この制度が続けば、死は“必要数”として永遠に生産され続ける。短期の死を受け入れて、長期の死の生産機構を壊す。これは倫理の計算だ。計算する倫理は危険だ。危険な倫理ほど力を持つ。


 案内人は言った。


「今だって死んでる。帳簿があるから、死が“正しく”なる。正しい死は止まらない。正しくない死は、まだ止まる」


 正しい死は止まらない。正しい生も止まらない。止まらないものは、個人を押し潰す。押し潰されても制度は続く。続く制度が文明になる。文明が戦争になる。戦争がまた文明になる。核戦争後も文明は死ななかった。ただ形を変えた。死なない文明は地底であり、死を磨く文明は地上だ。


 案内人が小さな火器を取り出した。簡易の点火具。地上で火は貴重だ。貴重な火を紙に使うということは、彼が本気だという証拠だ。証拠は揃っている。揃っているのに、僕の指が動かない。動かないのは恐怖ではなく、損失の予感だ。帳簿を燃やせば、僕は地底へ何を持ち帰るのか。任務はどうなる。地底は僕をどう扱う。扱う、という言い方自体が地底の癖だ。地底は人間を扱う。扱われることに慣れた僕は、いま扱われない状況に立っている。


 案内人が僕を見た。


「君が決めろ……。僕は君の手を勝手に動かせない。勝手に動かせたら、僕は連盟と同じだ」


 連盟と同じ。地底と同じ。支配と同じ。彼は支配を嫌うふりをしているのかもしれない。あるいは本当に嫌っているのかもしれない。嫌っているなら、なぜ彼はここまで制度語彙を知っている。なぜ彼は均衡を語れる。なぜ彼は帳簿に慣れている。


 僕はふと気づいた。


「……君は、連盟の中にいた」


 案内人は黙った。黙るのは肯定だ。肯定は危険だ。危険は死だ。だが地上では、危険な肯定ほど価値がある。


 彼はやっと言った。


「いた……。計理にいた。点を計ってた。死を配点してた。配点が、誰かの咳を止めると思ってた」


 思ってた。過去形。つまり彼は裏切った。裏切りは地底では最大の罪だ。だが地上では裏切りは生存の技術になることがある。生存の技術は倫理に変わる。


「でも違った……」案内人は続けた。「配点は、咳を止めない。咳を点に変える。点は次の死を買う。次の死が次の点を生む」


 循環だ。閉じた循環。閉じた循環は美しい。美しい循環は人間を陶酔させる。陶酔は危険だ。陶酔は死ぬ理由になる。地上で死は理由になり得る。地底で死は理由になってはいけない。理由になってはいけないものが理由になると、制度は暴走する。


 外で足音がした。追跡。時間がない。選択に時間は与えられない。与えられない選択は残酷だ。残酷な選択ほど現実だ。


 案内人が点火具を僕の手に押し込んだ。


「頼む……。燃やせ。君が燃やすなら、それは地底の命令じゃない。君の選択だ」


 僕の選択。僕の理由。第三の理由。監督官が言っていた言葉が、地底の灰白い廊下の匂いを伴って蘇る。


 僕は点火具を握り、帳簿の紙に火を近づけた。


 紙が一瞬だけ躊躇したように見えて、次の瞬間、炎が走った。炎は速い。速い炎は制度より速い。制度は遅い。遅い制度は外からは壊しにくいが、内部からなら燃える。内部から燃える制度は、灰になるまで止まらない。


 煙が立つ。煙は臭い。臭いは情報だ。情報は追跡を呼ぶ。追跡は死を呼ぶ。僕は咳き込む。咳は生存の反射だ。反射は思想より古い。古いものが僕を救う。


 外の足音が近づく。


 案内人が入口へ向かい、刃物を抜いた。刃物。地上の古い技術。古い技術は、故障しない。故障しないものは信じられる。信じられるものは、握ったときに手が震えない。


「君……」案内人が言う。「君は地底へ戻れ。戻って、言葉だけ持ち帰れ。帳簿は灰になったって言え。灰なら証拠にならない。証拠にならないなら、地底は“整えられない”」


 整えられない地底。整えられない世界。管理できない世界。地底が最も嫌う世界だ。嫌う世界の中で、人間は生々しく生きるしかない。生々しさは危険だが、輪郭でもある。


 炎が帳簿の背を舐め、文字が黒く潰れていく。潰れる文字。潰れる制度。潰れる正しさ。


 僕は思った。いま僕は、死の制度を壊している。しかし同時に、地底の救済の暴力も壊している。壊すことが善かどうかは分からない。分からないことは不安だ。不安は地底では治療対象だ。だが地上では不安は生存の条件になる。不安があるから慎重になる。慎重になるから生き残る。


 入口の外で、誰かが叫んだ。


「煙だ……。燃やしてる」


 案内人が短く笑った。


「火は正直だ……。制度より正直だ」


 次の瞬間、扉が蹴破られる。


 光が入り、銃口が入り、叫びが入り、地上が雪崩れ込んでくる。


 案内人が僕を押し倒す。


「伏せろ……」


 銃声。粉塵。破裂。僕の耳が鳴る。耳鳴りは生存の副作用だ。副作用は生きている証拠だ。証拠がある限り、僕はまだ点になっていない。


 炎は燃え続け、帳簿は崩れ、紙は灰になる。


 灰は軽い。軽い灰は風に乗る。風に乗った灰は、どこへでも行く。どこへでも行くものは管理できない。管理できないものは地底が恐れる。だが管理できないものは、地上では希望に似ている。希望は危険だが、生存の燃料にもなる。


 僕は灰の舞う中で、呼吸を数えた。一、二、三。


 数え終わる前に、案内人の肩が跳ねた。


 弾が当たった音。布が裂ける音。肉が受け止める音。音は薄いのに重い。重い音は、時間を止める。


 案内人が僕を見た。目が白い。煤で汚れた目の白さ。地上の目。


「……行け」


「君……」


 僕は言った。言葉が喉で詰まる。地底の言葉が役に立たない。任務も、安定も、最優先も、ここでは役に立たない。


 案内人は口元だけで笑った。


「名前……。いま言うのは安売りだ。でも……君が戻るなら、必要だ」


 必要。必要という言葉は制度の言葉だ。だが今、必要は人間の言葉になっている。


 彼は息を吸い、吐く。


「……リーヴ」


 リーヴ。名。呼ばれるための道具。安売りしないと言っていた名を、彼は安売りした。安売りするという行為が、死に近い者の倫理だと僕は思った。死に近い者は、価値を放り投げることができる。放り投げた価値は、誰かの手に残る。


「リーヴ……」


 僕が復唱すると、リーヴは頷いた。頷きは合意だ。合意は地底の癖だ。だがこの頷きは地上の頷きだった。生存の頷き。別れの頷き。


 彼が刃物を握り直す。


「君は地底へ戻れ……。戻って、地上を“正しく”説明するな。正しく説明したら、地底が正しく壊す。壊し方が正しいと、また止まらなくなる」


 正しく壊す。正しさが止まらない。正しい死が止まらないように、正しい救済も止まらない。止まらない正しさは、人間を置き去りにする。


 僕は立ち上がり、逃げ道へ走る。瓦礫の隙間。暗い通路。外へ。銃声が追いかけてくる。追いかけてくる音の中で、僕は振り返らない。振り返れば、リーヴの死が確定してしまう気がした。確定は帳簿がする。帳簿は燃えた。だから確定はしない。確定しないなら、まだ世界は未確定だ。未確定は不安だが、希望でもある。


 地上に出る。


 空は灰色で、光は濁っていて、風は不規則だ。だが風の中に、紙の灰が舞っている。制度の灰。死の通貨の灰。灰は僕の頬に触れ、すぐに落ちる。落ちるものは掴めない。掴めないものは管理できない。管理できないものは、人間の外へ落ちていく。


 僕は端末を握りしめた。録音は残っている。言語記録。リーヴの言葉。点と配給と帳簿と均衡。地底が欲しがる“理解”。理解は武器になる。武器になった理解は救済を装って襲いかかる。僕は、それを持ち帰るのか。持ち帰って、どう語るのか。語り方で、地底の未来が変わる。


 昇降区画へ向かう道を、僕は一度だけ立ち止まって見上げた。上。地底へ戻る方向。戻るというのは退避だ。退避は生存の技術だ。だが退避は同時に、選択の回避でもある。回避した選択は、いつか別の形で戻ってくる。戻ってくるものは、返済だ。返済は未来を縛る。点の制度と同じだ。


 僕は歩き出す。


 呼吸を数える。一、二、三。


 地底へ戻ったら、僕は何を最優先にするのか。


 その問いだけが、灰の匂いよりも濃く、僕の中に残っていた。

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