第5話
走るという行為は、地底ではほとんど「訓練」に分類される。
訓練は安全のために行われる。安全は死を避けるために行われる。つまり地底で走るのは、生き残るための予行演習でしかない。だが地上で走るのは、予行ではなく本番だ。本番は身体の嘘を許さない。肺が焼ける。足首が不安定になる。視界が狭くなる。狭くなった視界の中で、世界が単純化される。単純化は危険だ。単純化は暴力に向く。地上は単純化が得意だ。戦争がそれを鍛える。
案内人は僕を瓦礫の影へ押し込み、そこで一度立ち止まった。息を整えるというより、音を聞いている。地上では耳が目より先に生存を決めることがある。視界は壁で遮られるが、音は回り込む。回り込む情報は、嘘をつきにくい。
「ここは、まだ追い切れてない……」
案内人はそう言った。声が低い。低い声は落ち着きに聞こえるが、地上では低い声は単に“無駄を削った声”でもある。無駄は死を呼ぶ。削るのは合理だ。合理は地底の得意分野のはずなのに、今は地上の方が合理を使いこなしているように見える。合理の用途が違うだけだ。地底は生存の合理を磨き、地上は死の合理を磨いた。
僕は呼吸を数えた。一、二、三。数える癖が再発する。再発という言い方は病気みたいだが、実際のところ癖は病気に似ている。癖は環境によって形成され、環境が変わっても残り続ける。残り続けるものは、たぶん“自分”と呼ばれる。自分は制度より頑固だ。頑固なものほど管理したくなる。地底がそうしてきたように。
僕は端末を見た。録音は走っている。地底が望む言語記録。だが今の僕には、それが救済の材料に見えない。救済は便利な単語だ。便利な単語は暴力を隠す。地底の救済は、しばしば矯正と同義になる。
案内人が言った。
「君、配給所で“値段”を見ただろ……。点は腹を満たす。でも点は腹のためだけじゃない」
「……他に何がある」
案内人は笑わない。笑わないまま言った。
「点は、未来を縛る。貸し借りができる。担保にもなる。命の担保にもなる」
命の担保。僕の喉が乾く。地底では命は共同体の資産だから、担保にするという発想自体が馴染まない。資産は動かせるが、担保にすると誰かの権利になる。権利が偏ると社会が歪む。歪みは事故を生む。事故は死だ。地底は歪みを嫌う。だが地上は、歪みを制度として利用する。歪みを利用すると、力が集中する。力が集中すると統制が効く。統制が効けば戦争は管理できる。戦争が管理できれば点を管理できる。点を管理できれば社会を管理できる。
「誰が管理してる……」
僕がそう言うと、案内人は少しだけ首を傾げた。
「君、さっきから“誰”って聞きたがる……。地底の癖だ。ここでは“誰”より“どこ”が大事」
どこ。場所。場所は資源の集積だ。資源の集積は権力だ。権力は制度だ。制度は言葉だ。言葉は倫理だ。倫理は死を正当化する。僕は頭の中で循環を回しながら、案内人の言う“どこ”を探した。
案内人が、指で先を示した。崩れたビル群の向こう、低い塔のようなものが見える。塔といっても、立派な建築ではない。鉄骨とコンクリートの残骸を寄せ集めた“立っている瓦礫”だ。瓦礫が立っているということは、誰かが立たせたということだ。立たせるのは労力だ。労力は配給される。配給される労力は統制の証拠だ。
「帳簿がある……」
案内人は言った。
「帳簿……」
僕は反射的に言い返した。帳簿という単語は地上の現実感を濃くする。端末のデータより、紙の帳簿の方が暴力に似ている。紙は燃える。燃えるものに価値を預けるというのは、常に脅迫を内包する。燃やせば消える。消えるという事実が権力になる。
「点は、あそこで生まれる」案内人は続ける。「正確には、あそこで“確定”する。確定しない点は、点じゃない。君が見た板の数字は、観衆に見せるための数字だ。本当の数字は帳簿にだけ残る」
本当の数字。地底でも数字は真実の顔をする。だが数字は常に誰かの都合に合わせて切り取られ、丸められ、配点される。配点の時点で倫理が混入する。混入した倫理は、数字を武器に変える。
「入るのか……」
「入る」案内人は即答した。「君が地底へ何かを持ち帰るなら、帳簿だ。言語より、帳簿の方が効く」
効く。効くという言い方は薬みたいだ。薬は症状を抑えるが、原因を治すとは限らない。地底は薬で世界を治そうとする癖がある。地上は薬で世界を壊しても平気な癖がある。どちらも癖だ。癖が文明だ。
僕らは瓦礫の影を伝って塔へ近づいた。入口は低く、周囲に見張りがいる。見張りは銃を持っている。銃を持つ者は、銃を持たない者より先に発言権を持つ。発言権の差は倫理を生む。倫理は差を正当化する。正当化されれば差は制度になる。制度は差を固定する。固定された差は社会の骨格になる。
案内人が僕の袖を引いた。
「君、音を出すな……。靴底が鳴る。防護服は素材が硬い。硬い音は目立つ」
僕は頷いた。頷いて、そして自分の頷きが地底の習慣だと気づく。地底の会話は合意で進む。合意は安全だ。地上の会話は力で進む。力は危険だ。だが危険は、いま僕の側にある。
案内人は小石を拾い、別方向へ投げた。音が鳴る。見張りの視線がそちらへ流れる。流れる視線の隙間は、制度の盲点だ。制度は盲点を嫌う。だから地底は盲点を潰す。地上は盲点を利用する。利用できる盲点が残る程度に制度が粗いから、地上はまだ“生き物”として動ける。
僕らは入口へ滑り込み、暗い通路へ入った。
内部は臭い。紙と油と金属の匂い。紙の匂いがするということは紙が大量にある。大量の紙は、権力の匂いだ。権力は記録を好む。記録は支配を可能にする。支配は安心を生む。安心は善の顔をする。
通路の奥で声がした。複数。会話の断片。
「……第三件、点八五。観衆同期が低い。次は構図を変えろ」
「……候補者の履歴、繰上げで埋める。寄付は禁止だ。均衡が崩れる」
「……弾薬の配給比率を上げる。次週は戦線を押し上げる」
戦線を押し上げる。戦争が計画されている。計画される戦争は、地底の倫理と似ている。地底も計画で世界を維持している。維持の対象が生存か死かの違いだけで、構造は同じだ。構造が同じというのが最も気持ち悪い。気持ち悪さは理解の副作用だ。理解は時に救いより残酷だ。
案内人が僕の耳元で言う。
「ここは連盟の“計理”……。点を計る場所。死を計る場所。だから帳簿がある」
計理。計る理。理は合理の理だ。合理の理が、死のために使われている。
僕らは扉の隙間から部屋を覗いた。机が並び、紙束が積まれ、壁には板があり、そこに点の推移が書かれている。推移。死の推移。グラフがある。グラフは未来を語る。未来を語る者は支配者になる。地底でも同じだ。未来予測は統治の中枢だ。未来が読めれば事故が減る。事故が減れば死が減る。死が減れば善が増える。地底はそう信じる。ここは逆だ。未来が読めれば死が増える。死が増えれば点が増える。点が増えれば配給が回る。配給が回れば社会が続く。社会が続けば連盟が続く。連盟が続けば戦争が続く。
部屋の中央に、ひときわ大きな帳簿が開かれていた。紙が厚い。厚い紙は、軽い命を支える。皮肉だ。厚い紙が薄い命を支える。
帳簿の上部に、太い文字。
――「点庫総帳」
点庫。点の倉庫。倉庫があるということは、点が溜められるということだ。溜められるということは、点が流通だけでなく、貯蔵と投資の対象になっているということだ。投資ができる通貨は、通貨以上になる。通貨以上になると、人間はそれに魂を預ける。魂を預けると、倫理が完成する。
僕はページの端に目を走らせた。項目は整然としている。
候補者番号。所属。査定履歴。借点。利率。返済計画。繰上げ条項。担保。担保の欄に、淡々と書いてある。
――「次回査定における自己投入」
自己投入。自分を投入する。自分を死へ投げ込む。投げ込んで点を得る。点で家族を生かす。家族を生かすために自分を死に投げる。地底では家族という単位は希薄になった。共同体が家族の代替になったからだ。地上では家族が最後の砦になる。砦になるものほど人質になる。人質は制度の燃料だ。
僕は胃がひっくり返りそうになった。防護服の内側で汗が冷える。線量計が小さく鳴る。鳴るということは危険だ。危険は死だ。だがいま僕が感じている危険は放射線ではない。倫理だ。倫理は目に見えない放射線みたいなものだ。見えないくせに身体を変える。
案内人が、帳簿の別のページを指差した。そこには戦線の計画が書かれていた。戦線を押し上げる日付。必要な弾薬数。必要な候補者数。必要な“査定件数”。
必要な査定件数。必要な死の件数。
死が必要数として書かれている。地底でも死は事故として扱われるが、ここでは死は必要数として扱われる。必要数として扱われる死は、もはや死ではない。生産物だ。生産物は最適化される。最適化された殺しは、倫理を奪う。倫理が奪われると人間はただの機構になる。機構は壊れるまで動く。壊れた機構は交換される。交換のためにまた点が必要になる。点のためにまた死が必要になる。
循環が閉じている。閉じた循環は強い。強い循環は外部から壊しにくい。壊しにくい循環は文明になる。
そのとき、背後で床板が鳴った。
案内人が僕の肩を掴む。掴まれる。身体が反射する。反射は正しい。僕らは影へ滑り込むが、遅かった。
「そこ……」
声。低い。命令の声。地底の監督官の声に似ている。だがもっと乾いている。乾いた命令は躊躇を含まない。躊躇がない命令は、発した瞬間から暴力になる。
見張りが二人、通路を塞いでいる。銃口がこちらを向く。銃口は会話を終わらせる。終わらせることで制度が守られる。
案内人が静かに言った。
「……動くな。撃たれる」
撃たれる。点になる。配給所の声が蘇る。僕はここで点になるのか。僕の防護服は価値がある。価値があるものは点に換えられる。僕は通貨になれる。通貨になれる僕は、地上では“良い死”を提供できる素材だ。素材としての僕。地底で資源だった僕。資源と素材の違いは、扱われる速度だけだ。
僕は見張りの目を見た。目が冷たい。冷たい目は倫理の外にいる。倫理の外にいる目は、倫理のために動く。矛盾だが、制度は矛盾で回る。
見張りが言った。
「防護服……。点庫に献上だ。候補者に繰上げられる前に使える」
案内人が一歩前へ出た。僕を庇う形。庇うことは点にならない。点にならない行為をする理由が、地上では少ない。少ない行為をする者は、何かを隠している。
案内人は言った。
「連盟の点庫に手を出すと、均衡が崩れる……。均衡が崩れたら、君らが先に飢える」
見張りが笑った。短い笑い。笑いは余裕の証拠だ。
「均衡は連盟が決める……。お前が決めるな」
その瞬間、僕は理解した。案内人はただの案内人ではない。連盟の言語を知り、均衡という単語を自然に使う。均衡は掲示に書かれていた禁句の中心だ。禁句を中心に話す者は、禁句を作る側に近い。
案内人が、僕にだけ聞こえる声で言った。
「君、ここから先は選べ……。帳簿を持ち出すか、持ち出さないか。持ち出せば地底はこれを使って地上を“整える”。整えれば、この制度は形を変えて続く。持ち出さなければ、君は点になるかもしれない。でも、続き方は変わるかもしれない」
選べ。選択。自由。自由は死と隣り合わせだ。地底が恐れてきたものだ。僕は今、地底の外で初めて本物の自由に触れている。触れているという事実が、皮膚の上で痛い。
見張りが銃口を少し上げた。時間がない。選択に時間は与えられない。時間を与えないこともまた暴力だ。暴力は輪郭だ。輪郭は確かさだ。
僕は帳簿を見た。点庫総帳。紙の束。厚い。重い。重いものは持ち運びに不利だ。不利なものほど価値がある。価値があるものほど奪われる。奪われる前に奪う。地上の倫理が、僕の中へ侵入してくる。
僕は呼吸を数えた。一、二、三。
そして、手を伸ばした。




