第4話
点が配られる場所は、戦場の中心ではなく生活の中心にあった。
それは当たり前の話でもある。通貨が戦場だけで流通している社会は、たぶん長くは持たない。戦場は生産の場で、生活は消費の場だ。生産と消費が繋がってはじめて制度は制度になる。地上の「満足死」は、ただの美学ではなく、きちんと制度として生活へ接続されている。接続されている以上、これは一過性の狂気ではない。狂気が社会構造に融着した状態だ。
案内人は、瓦礫の陰を選んで歩きながら言った。
「点が欲しいだけだって、さっきの奴が言っただろ……。つまり点は腹を満たす」
僕はうなずいた。うなずく以外に反応がなかった。うなずきは最小の同意で、最小の同意は生存を助ける。地底で僕らは合意を大量に消費して生存してきたが、地上では最小の合意で生存する。余計な合意は奪われる。奪われるのはいつだって弱い方だ。
広場から少し離れた場所に、鉄骨で組んだ長屋があった。壁は薄い板金で、ところどころに弾痕。看板がある。看板は制度の顔だ。看板があるということは、そこが繰り返し使われるということだ。繰り返し使われる場所は、日常になる。日常になった暴力は、暴力に見えなくなる。
看板にはこう書かれていた。
――「配給 査定点交換所」
交換所。通貨。経済。僕の中で、地上の死がさらに一段階、冷たくなる。
入口には列ができていた。列の人間たちは武器を持っていない。持っていても隠している。隠しているのは礼儀なのか、それとも逆に攻撃の準備なのか、僕には判別がつかない。地底なら判別は容易だ。武器を持つことは禁じられ、禁じられているものは存在しないことにされる。地上では禁じられているものほど存在感がある。存在感があるから奪われる。奪われるから隠す。隠すから疑う。疑うから撃つ。撃つから死ぬ。死ぬから点が生まれる。点が生まれるから列ができる。
列の最後尾に、少年がいた。少年という言い方は曖昧だ。地上では年齢が意味を持ちにくい。不老の地底で年齢は飾りになっているが、地上で年齢は単に「何回生き残ったか」の目安になる。回数が少ないほど危険で、回数が多いほど危険だ。危険が減るのは中間だけだ。その中間を通過できる者がどれほどいるのか、地上の街並みが答えている。
少年の首には、札が下がっていた。布の札。数字が刺繍されている。昨日見たのと同じ形式。
僕は案内人に言った。
「……あれは何だ。番号札」
案内人は、歩きながら短く言う。
「履歴……。点の履歴と、所属の履歴と、貸し借りの履歴。身分証だ。身分証がないと配給が止まる。配給が止まると死ぬ。だから首から下げる」
首から下げるのは象徴としてあまりに露骨だ。地底では番号は端末に埋め込まれる。埋め込まれた番号は“見えない鎖”になる。地上は逆だ。鎖を見える場所に出す。見える鎖は、逆に鎖だと認識されにくい。鎖は目立ちすぎると背景になる。背景になった鎖は、疑われない。
列はゆっくり進む。進む速度が遅いのは、供給が少ないからではない。供給は制度が調整できる。遅いのは“演出”だ。待たされると、人間は価値を感じる。価値を感じれば従う。従えば争いが減る。争いが減れば配給所が守られる。守られた配給所は制度を維持する。制度が維持されれば戦争が維持される。戦争が維持されれば点が維持される。維持。地底が最も愛する言葉が、地上でも生きている。ただし生かされ方が違う。
建物の中から、声が漏れてきた。
「二件目、七三……。口座に反映。手数料、九……」
口座。反映。手数料。地上の言葉は粗いが、制度語彙だけは奇妙に整っている。整っている制度語彙は、倫理を保守するための骨格になる。骨格があると、肉が腐っても形は保てる。地上の社会は、骨格だけで立っているように見えた。
案内人が僕の腕を引いた。
「入らない……。中は臭い。君の防護服が目立つ。外から見れば十分だ」
僕は頷いた。十分だ、と言われると十分でないものを見たくなるのは、地底の教育の副作用かもしれない。十分な範囲が制度によって決められると、人間は制度の外側に意味を探し始める。意味を探すのは危険だ。危険は死を呼ぶ。けれど僕は、危険が目的地として近づいてくる感覚を、もう抑えられなかった。
入口の横に掲示板があった。黒い板。粉で書かれた文字。更新が繰り返されている証拠だ。掲示板には、点と物資の交換比率が書いてあった。
――「乾燥食 一袋 点一二」
――「浄水フィルタ 一枚 点二五」
――「抗生剤 一回分 点六〇」
――「弾薬 九ミリ十発 点八〇」
――「防護フィルタ 規格外 点二〇〇」
規格外。地底の用語が混じっている。地上の制度が、地底の制度語彙をどこかで盗用しているのか。あるいは、地底の制度が地上の制度語彙をかつて盗用したのか。どちらでもいい。制度語彙は感染する。感染した制度語彙は、宿主の倫理を少しずつ改造する。
僕は思った。抗生剤が六〇で、弾薬が八〇。つまりこの社会は、治療より殺傷にわずかに優位性を置いている。わずかに、というのが重要だ。極端なら自滅する。わずかに偏ると持続する。持続する偏りは文化になる。文化になった偏りは疑われない。
列の途中で、女が小さな子どもを抱いていた。子どもの咳が聞こえる。乾いた咳。地底で咳はすぐ治療される。治療されない咳は、ここでは点の不足を示す。点の不足は、誰かの死の不足を示す。死の不足。言葉にすると吐き気がするが、制度として実装されれば日常になる。
女が前の男に言った。
「……お願い。少しだけ分けて。子どもが」
男は顔を背ける。背けるのは残酷ではなく合理だ。合理は善に見える。合理が善に見える社会は、すでに倫理が変形している。
男は短く言った。
「貸せない……。俺も次の査定が近い」
次の査定。査定は死の点数だった。次の査定が近いというのは、次の死が近いという意味にも見えるし、次の殺しが近いという意味にも見える。死は受けるものなのか、与えるものなのか。地上では両方が同じ単語で済まされる。単語が同じだと、倫理も同一化される。怖いのはその同一化が効率的に社会を回していることだ。
案内人が呟く。
「哀れみは点にならない……。だから流通しない」
哀れみは点にならない。地底では哀れみは“危険”として管理される。哀れみは他者を優先する動機になり、他者を優先する動機は計画を乱す。計画が乱れると事故が起きる。事故は死だ。地底は哀れみを嫌う。地上は、哀れみを嫌うのではなく、哀れみを無価値にする。無価値なものは消える。消えた哀れみの空白に、点が入る。
配給所の脇に、小さな掲示があった。紙ではない。薄いプラスチック板。耐久性があり、奪い合いの中で残ったものだけが素材になる。そこにこう書かれていた。
――「査定点の寄付は禁ず。寄付は社会の均衡を破壊する。違反者は候補者へ繰上げ」
寄付が禁じられている。つまり、この社会は意図的に慈善を潰している。慈善は倫理の逃げ道になる。逃げ道があると制度が揺らぐ。制度が揺らぐと戦争が揺らぐ。戦争が揺らぐと点が揺らぐ。点が揺らぐと配給が揺らぐ。配給が揺らぐと社会が崩れる。だから寄付を禁じる。論理としては理解できる。理解できるということは、僕の中にも同じ構造があるということだ。地底も寄付を好まない。寄付は計画の外だ。計画の外は危険だ。危険は死だ。
案内人が僕の顔を覗き込む。
「君、今のを録ってる……」
僕は端末に触れた。録音は走っている。地底が望む記録。地底が望む“言語”。地底は言語を手に入れて、ここを管理したいのだろう。管理は救済の顔をする。救済の顔をした管理は、もっと強力な暴力になり得る。
「……録ってる」
「やめろ……。録ると君は地底の道具になる。道具は壊される。壊されたら点にもならない」
案内人の言葉は、脅しのようで忠告だった。地上の忠告は地底の忠告より直接的だ。直接的な言葉は痛い。痛い言葉は、生の輪郭を与える。
僕は言った。
「僕は観測班だ。記録が任務だ」
案内人は、笑っていないのに笑ったような顔をした。
「任務……。地底の人間は任務って言えば自分が救われると思ってる。任務って言葉は、罪を薄める薬だ……」
罪。地底で罪は曖昧だ。罪は事故の形式でしか現れない。事故は誰かの責任にできるが、責任にすれば死が増えるから責任は曖昧にされる。地底では罪がぼやける。地上では罪が点数になる。点数になった罪は、罪として感じられなくなる。
そのとき、配給所の中から怒鳴り声がした。
「番号が違う。履歴がない。偽造だ……」
列がざわつく。ざわつきは興奮の兆候だ。興奮は事故の兆候だ。事故は死の質を下げる。質が下がると制度が揺らぐ。だからすぐに鎮圧される。
入口から、男が引きずり出された。札を掴まれ、首元が絞まる。男はもがく。もがきは生存の反射だ。反射は正しい。だが正しい反射も、制度の前では違反になる。
係の人間が言った。
「候補者へ繰上げ……。次の査定で取り戻せ」
取り戻す。点を取り戻す。つまりこの社会では、制度違反は処罰ではなく“死の前借り”として処理される。前借りは借金だ。借金は未来を拘束する。未来が拘束されれば、人間は制度から逃げられない。逃げられない人間は制度を支える柱になる。地上の制度は、人間を柱に変える。柱は生きていない。だが柱がなければ建物は崩れる。建物が崩れれば皆が死ぬ。だから柱になる。柱になることが善になる。
男がこちらを見た。目が合った。合ってしまった。
その目は地上の目だった。乾いていて、怒っていて、そしてどこか諦めている。諦めは死の予兆だ。地底では諦めは治療対象だが、地上では諦めは生存戦略になり得る。諦めれば期待しなくなる。期待しなければ絶望しにくい。絶望しにくければ動ける。動ければ生き残る。
係の人間が男の胸元の札を引きちぎり、代わりに新しい札をぶら下げた。刺繍された数字が違う。数字が変わる。それは、彼が別の人間になったことを意味する。制度は、人間を数字で作り替える。
案内人が僕の腕を強く掴む。
「行く……。ここで長く見てると、君は候補者になる。地底の防護服は価値がある。価値があるものは点に換えられる」
価値があるものは点に換えられる。つまり僕も、点になり得る。
僕は反射的に後退した。その瞬間、列のどこかから声が飛ぶ。
「防護服……。あれを売ればフィルタが買える」
もうひとつ声が重なる。
「地底のやつだ……。あいつ、点になる」
点になる。僕が点になる。
地底で僕は資源だった。地上で僕は通貨になる。資源と通貨の違いは、どちらも人間を人間として扱わないという点で似ている。違うのは速度だ。地上の通貨化は早い。早さは暴力だ。暴力は輪郭だ。輪郭があると、僕は確かになる。確かになる代わりに、死に近づく。
案内人が僕を引きずるようにして、瓦礫の陰へ押し込んだ。
「走れ……。今は走れ。考えるのはあとだ」
僕は走った。呼吸を数えた。一、二、三。肺が痛い。痛いのに、僕は確かに生きている。生きていることが、今この瞬間だけは善でも悪でもなく、ただの事実として僕の身体にあった。
背後で、配給所のざわめきが膨らむ。点が足りない声。フィルタが欲しい声。子どもの咳。制度の骨格が軋む音。
そして僕は理解した。満足のいく死は、戦場の美学ではなく、生活の計算だ。計算が生活を支配すると、倫理は数式になる。数式になった倫理は、誰も止められない。
地底に持ち帰るべきは言語記録ではないのかもしれない。
持ち帰るべきは、この数式が成立してしまう条件そのものだ。




