4部 第7話
手動という言葉は、正しさを遅くする。
遅さは罪だ。地底では特に。遅い判断は死者を増やす。死者が増えるのは悪だ。悪を避けるために最適化する。最適化は速い。速い最適化は痛みを置き去りにする。置き去りにされた痛みは影になる。影は市場になる。市場は暴力になる。
だから地底は、手動を嫌う。
嫌うのに、いま手動へ移行した。
祭壇の側面表示が「配給:手動へ移行」と吐き出した瞬間、空気が変わった。祈りの空気が、汗の空気に変わる。汗の空気は人間の匂いだ。人間の匂いが戻ると、神は弱くなる。神が弱くなると、銃が強くなる。
強い銃は、次の神になる。
隊員の無線が荒れている。
「照合不能。優先度再計算不可。代替手順を――」
代替手順。帳簿の言語。帳簿が露出している。露出した帳簿は脆い。脆い帳簿は、群衆の視線で裂ける。裂けた帳簿の穴に、市場が入り込む。市場が入れば暴力が生まれる。暴力が生まれれば銃が必要になる。
循環は、別の形で閉じようとする。
閉じ方を変えるには、手動を“市場化”させない必要がある。手動の手が賄賂を受け取る前に、賄賂が価値にならない環境を作る。価値にならない環境とは、価値の言語を奪うことだ。価値の言語は点だ。点を奪えば祈りが止まる。祈りが止まれば、人は何か別の掴みどころを探す。
掴みどころは、名にしない共同だ。
名にしない共同は、制度が掴みにくい。掴みにくいものは矯正しにくい。矯正しにくい時間が、穴の時間だ。
隊員が女へ向かって手を伸ばす。拘束具。柔らかい拘束。痛くない拘束は抵抗を奪う。
「未認証者。拘束」
女は影のように身を翻した。早い。飢えの身体は軽い。軽い身体は線を超える。線を超えれば敵になる。敵になれば撃てる。撃てる状況は、銃を呼ぶ。
銃が出る前に、彼女を敵にしない必要がある。
僕は言葉を使いたくない。言葉は儀式に吸われる。吸われた言葉は神の声になる。神の声になった言葉は群衆を動かす。群衆が動けば暴力が生まれる。暴力が生まれれば銃が必要になる。
だから僕は、言葉ではなく“手順”で止める。
僕は自分の手首の帯を見せ、隊員の目線をそこへ誘導する。光らない帯。価値にならない帯。だが地底の印には見える。印は権限を匂わせる。権限を匂わせるものには、地底は一瞬だけ躊躇する。躊躇が時間になる。
「それは……」隊員の一人が言いかける。
監督官の声が背後から落ちる。
「触れるな。彼は――」
彼は、という単語の後に続く語彙は決まっている。資産。要員。耐性個体。役割。値。
値になる瞬間を、避ける。
僕は帯を引っ込めない。引っ込めないまま、帯の内側――皮膚の上――を指で軽く叩いた。短い、長い、短い。雑音。雑音は捨てられる。捨てられた雑音だけが、後で意味になる。
祭壇の端末が反応した。反応してはいけないはずだ。だが反応した。反応は事故。事故は盲点。盲点は穴。
表示が一瞬だけ乱れ、文字が走る。
――手動は点を作るな
――渡すな、並べ
――並べるな、混ぜろ
混ぜろ。
混ぜろという命令は危険だ。混ぜれば混乱が起きる。混乱は死を増やす。死を増やすのは悪だ。地底は混乱を嫌う。嫌うから抑止する。抑止は点を強める。点は宗教を強める。宗教は止まらない。
だが混ぜろという命令は、混乱を起こすためではない。混ぜることで“賄賂の経路”を断つ。渡すな、並べ。並べるな、混ぜろ。整列の美学を壊す。整列の美学が壊れれば、点が価値になりにくい。価値になりにくければ市場が痩せる。市場が痩せれば暴力が出にくい。暴力が出にくければ銃の理由が薄くなる。
薄くなった理由の隙間で、第三の閉じ方が生き残る。
監督官が隊員へ命令する。
「群衆を下げろ。祭壇を遮蔽。配給は中止、再評価」
中止。中止は群衆の飢えを刺激する。飢えは暴力だ。暴力は銃を呼ぶ。銃が出れば終わる。終われば循環が閉じる。
女が僕の横に滑り込む。声は低い。
「お前、あれを止めたのか」
僕は答えない。答えれば物語になる。物語になれば宗教になる。宗教になれば止まらない。
代わりに、地面の隔離テープの端を示す。端。盲点。穴。穴は移動する。
女の目が素早く理解する。理解の速度が速いのは、彼女が制度の外側で生きてきたからだ。外側は悪にされる。悪にされた者は、善を信用しない。信用しない者は神を疑う。神を疑う者は、別の掴みどころを探す。
監督官が僕を睨む。睨みは矯正の予告だ。予告は確定だ。確定は危険だ。危険は矯正される。矯正されれば薄まる。薄まれば終わる。
終わらせないために、ここを離れなければならない。
離れると敵にされる。敵にされると銃が出る。銃が出れば終わる。だから離れるのではない。保守へ回る。保守は穴だ。穴は移動する。移動する穴は敵になりにくい。
僕は監督官へ向けて、ほんの短く言った。
「保守口」
短い言葉。説明しない。説明しない言葉は、物語になりにくい。
監督官の眉が動く。動いた眉は誤差だ。誤差は事故だ。事故は盲点。盲点は穴。
隊員が叫ぶ。
「群衆が押してくる。線が――」
線が破れる。破れた線は壁ではなくなる。壁でなくなった線は、回路として露出する。露出した回路は、閉じる前に折れる可能性がある。
女が僕の腕を掴む。掴む手は熱い。熱い手は生きている証拠だ。
「来い」女が言う。「内側の穴へ」
内側の穴。台座の下。封印の縁。開けるな、触れろ。
僕は頷かない。頷きは痕跡だ。だが足は動かす。動けば、穴へ行ける。穴へ行けば、意味を折れる。
背後で、祭壇の光が短く、長く、短く点滅した。
混ぜろ。




