4部 第3話
地表という言葉には、軽さがある。
軽いというのは、ここでは嘘だ。地表は重い。重いものの上に、重い歴史が積み上がっている。積み上がったものは崩れる。崩れたものは粉になる。粉は空気に混ざる。空気に混ざった粉は、呼吸を支配する。
呼吸を支配するものが、地上の神だ。
昇降区画の扉が開いた瞬間、匂いが変わった。地底の清潔な空調の匂いではない。湿った金属でもない。乾いた灰の匂い。熱が去った後の匂い。焼けた石と、錆びた鉄と、古い紙が焦げた匂いが混ざっている。
紙が燃えた匂いは、帳簿の死だ。
帳簿が死んだあとに、銃が生き残った。
僕はその匂いを胸の奥へ入れないようにした。入れた瞬間に、僕の中で物語が立ち上がる。物語が立ち上がれば、宗教になる。宗教になれば止まらない。止めたいのは戦争ではない。循環だ。循環は、物語で閉じる。
閉じさせないために、僕は匂いを“事実”として処理する。事実は冷たい。冷たい事実だけが、矯正の熱を避けられる。
地表の光は白い。地底の白さと違う。地底の白さは整えられた白さだ。地表の白さは焼けた白さだ。結果だけが残った白さだ。結果だけが残る世界では、善も悪も薄い。薄い善悪の上で、銃だけがはっきりする。
銃は黒い。
昇降区画の周囲に、地底の隊員がいた。装備は控えめだが、控えめな装備ほど危険だ。控えめな装備は、装備を“見せない”ための装備だ。見せない抑止。見せない抑止は、抵抗を奪う。抵抗が奪われた世界は滑らかに進む。滑らかに進む世界は止まらない。
隊員の一人が僕の手首の白い帯を確認する。帯は光らない。価値にならない帯。だが地底は価値を作らずに済ませない。価値を作らなければ最適化できない。最適化できなければ委員会が不安になる。不安は恐れだ。恐れは抑止を呼ぶ。抑止は点を呼ぶ。点は宗教を呼ぶ。
結局、価値は作られる。
作られる前の隙間が、いまの時間だ。
「外気吸入は制限する」白衣が言う。「呼吸補助を装着」
装着。柔らかい単語。首輪の別名。僕の口元にマスクが当てられる。マスクは呼吸を守るふりをして、呼吸を測る。測る呼吸は配分の材料だ。配分の材料になった呼吸は通貨になる。
通貨になった呼吸は、奪われる。
奪われた呼吸が、地上の死だ。
僕はマスク越しに地表を見た。遠くに瓦礫の輪郭。崩れた建物。歪んだ鉄骨。粉塵の層。空には雲が薄く、雲の向こうの光が白い。白さが目に刺さる。刺さる白さは、警告だ。警告は事故だ。事故は危険だ。危険は矯正される。だがここは地上だ。矯正が追いつかない事故が、普通に残っている。
普通に残る事故の中で、人間はどう生きるのか。
地上は、死ぬために生きる世界だった。
いまは、死なないために祈る世界になった。
祈りの対象は、生存点だ。
「進む」隊員が言う。
僕は歩く。歩けば、視界の端に人影が見える。地上の住人。痩せた輪郭。布で顔を隠す者。腕に端末を巻いている者。巻いていない者。巻いていない者の目は、ぎらついている。飢えの目。飢えの目は、秩序を信仰しない。信仰しない目は事故だ。事故は排除される。排除された者が市場になる。市場が影になる。
影は、地底の光を濃くする。
地上の人々の視線が、地底の隊員へ向く。視線は冷たい。冷たい視線は敵意だ。敵意は戦線を作る。戦線ができれば抑止が必要になる。抑止が必要になれば、地底は武装する。武装すれば占領になる。占領になれば戦争だ。
戦争は循環を閉じる。
閉じ方を変えない限り、同じことが起きる。
遠くから、声が聞こえる。音だ。地底の映像にはなかった音。音があるだけで、罪悪感が戻る。罪悪感が戻ると、人は少しだけ止まれる。止まれるなら、まだ間に合うかもしれない。
「満足生だ」誰かが叫んでいる。「点を示せ。生き残りを示せ」
示せ。提示。査定。点庫の亡霊が生存の衣を着ている。衣を着た亡霊は、以前より厄介だ。以前は死を求めた。いまは生を求める。生を求める亡霊は、供給を正義にする。正義になった供給は、銃を正当化する。
正当化された銃は止まらない。
僕の前に、祭壇が見えた。白い端末が積まれ、光が点滅している。短い、長い、短い。雑音の形の合図。ゼロの痕跡。痕跡は名ではない。名にすると値になる。値になると捕まる。
僕は拾わない。名前にしない。だが覚える。
祭壇の側に、若い男がいた。腕に端末。目は乾いている。乾いた目は信仰の目だ。信仰の目は、疑わない。疑わない目は、命令を待つ。
男が僕を見た。僕のマスク。僕の白い帯。僕の背後の地底の隊員。男の口元が動く。
「地底の……使いか」
使いか。使い。使い捨て。僕は物だ。
僕は何も言わない。言えば、僕の言葉は儀式の一部になる。儀式の一部になった言葉は、宗教を強める。宗教は止まらない。
隊員が男に言う。
「配給線を守る。後退しろ」
守る。抑止の語彙。抑止の語彙が出た瞬間、地底は地上の土俵に片足を乗せた。片足を乗せれば、もう一方もいずれ乗る。乗れば戦争だ。戦争は循環を閉じる。
男が笑う。笑いが冷たい。
「守るだと……。守るなら、点を示せ。お前らが誰を生かすか、示せ」
示せ。点。査定。やはり、戻ってきた。
そのとき、祭壇の端末の光が一瞬だけ乱れた。乱れは誤差。誤差は事故。事故は盲点。盲点は穴。穴は移動する。
光の乱れの中に、表示が走る。ほんの一瞬。だが僕には読めた。
――生存は点ではない
――点は記録だ
――記録に価値を与えるな
価値を与えるな。
ゼロの声。声は雑音の形で、地上に落ちている。落ちた雑音は、まだ誰にも拾われていない。拾われれば宗教になる。宗教になれば止まらない。
拾わせないために、僕はここにいる。
僕は物として投下された。物として扱われるなら、物にできることをする。物は言葉を持たない。言葉を持たない物は、儀式の外側に置かれやすい。外側に置かれれば、穴になれる。
穴になれば、意味を折れる。
僕は祭壇を見つめる。喉の奥で、骨の感触がする。まだ折れていない骨の感触。折れる前に、詰まらせる必要がある。詰まらせる場所は、喉ではない。地上だ。
地上の喉は、宗教だ。
宗教を詰まらせれば、銃の理由が薄くなる。薄くなれば抑止が遅れる。遅れれば時間ができる。時間ができれば、穴が移動できる。
僕は呼吸を数えない。
数えないまま、地表の白さの中へ踏み出す。




