4部 第2話
移送という言葉は、物のためにある。
人間に対して使われるとき、その人間は物に近づく。物に近づいた人間は、数に近づく。数に近づいた人間は、責任の外側へ追い出される。責任の外側に出たものは、壊れても誰も痛まない。痛まない破壊は速い。速い破壊は、いつも善の顔をしている。
善は急ぐ。
隔離室から出される僕の手首には、白い帯が巻かれていた。端末ではない。端末に似た帯だが、光らない。光らないというのは、記録だけの帯だ。記録だけを残す。価値を作らない。ゼロが言っていたやり方。価値がなければ市場は育ちにくい。市場が育ちにくければ、銃の理由が薄くなる。薄くなれば抑止の速度が落ちる。
速度が落ちれば、穴が生き延びる。
白衣が淡々と言う。
「生体識別は維持する。発話は制限する」
制限。柔らかい拘束。痛くない拘束は、抵抗を奪う。
僕は言わない。言わないことが、いま僕の唯一の抵抗だ。抵抗は派手でなくていい。派手な抵抗は物語になる。物語になれば宗教になる。宗教になれば止まらない。止めたいのは戦争ではなく循環だ。循環は、派手さで強化される。
廊下の光は均一だった。均一な光は、影を見えなくする。影を見えなくするのは、地底の得意技だ。地底は影を嫌う。影を嫌うくせに、影を増やしてしまう。影は欠落だ。欠落は埋められる。埋められると完璧になる。完璧になった救済は支配になる。
支配は終わらない。
警備が前後につく。銃器ではない。地底の銃は、まだ言語の外に隠れている。銃を見せない抑止。抑止を見せない抑止は、より従わせやすい。従いやすい制度は止まらない。
昇降区画に近づくにつれて、空気が変わった。空調の匂いが薄くなり、金属の匂いが濃くなる。喉の匂いだ。喉は飲み込む。飲み込むために湿る。湿った金属は、いつも胃の匂いがする。
扉の前で監督官が待っていた。薄い顔。だが薄さの奥が疲れている。疲れがあるということは、彼女が眠れていないということだ。眠れていない者は、矯正の滑らかさから外れやすい。外れた瞬間にだけ、人間は制度を疑える。
監督官が言う。
「移送前に確認する」
確認。確認は帳簿の言語だ。帳簿は燃えない。燃えない帳簿は、地底の宗教だ。
「地上では、あなたが話すべきでないことがある」監督官は続けた。「ゼロ。欠落。委員会。内部攪乱」
僕は沈黙する。沈黙は安全ではない。沈黙は測定される。測定される沈黙は、いずれ分類される。分類されれば矯正される。矯正されれば薄まる。薄まれば終わる。
終わらないために、沈黙の質を変える。
僕は、頷かない。頷きは感情の痕跡だ。痕跡は制度に拾われる。拾われた痕跡は、利用される。
監督官が僕の手首の帯を見る。
「それは記録用だ。配給には使えない」
配給には使えない。価値にならない。ゼロの方法が、ここにも紛れ込んでいる。紛れ込む欠落は、事故の形を取る。事故は忙しさを生む。忙しさは盲点を増やす。
盲点が増えれば、喉の中で誰かが動ける。
監督官が低い声で言う。
「地上は儀式化している。満足生は、生存点を神にした」
神。神は止まらない。止められない神は、神ではなく装置だ。装置としての神は、壊すともっと硬い装置が出てくる。正しく壊すと止まらない。
だから壊さない。意味を折る。意味を折れば、神は神でいられない。神でいられなくなった瞬間、人は祈りを失う。祈りを失った人は、次に何を掴む。掴むのは銃か。掴むのは帳簿か。掴むのは、別の語彙か。
別の語彙が要る。別の語彙は、制度の辞書に載っていない必要がある。載ればまた奪われる。
僕は言った。
「僕を骨にするつもりだな」
監督官の目が僅かに動く。誤差。
「骨」
僕は続ける。
「喉に詰まる骨だ。喉が飲み込むのを止めるために」
監督官は短く言った。
「止めない。折る」
彼女が“折る”と言ったのが意外だった。折るという単語は、破壊の匂いがする。地底は破壊を嫌う。嫌うから矯正する。矯正の人間が折ると言うのは、疲れか、諦めか、あるいは亀裂だ。
亀裂は光だ。
光は火種になる。
監督官が扉のパネルに手を当てる。金属の扉が開き、昇降区画の内部が露出した。縦に伸びる空間。上へ通じているはずなのに、どこか下へ落ちていく感じがする。喉は上と下を混ぜる。飲み込むという行為は、方向感覚を奪う。
昇降区画の壁面に、白い端末が整列している。人が触れられる高さではない。設備として固定された端末。配るための端末ではなく、測るための端末。測る端末は、人間を値にする。
値にされた人間は、移送される。
僕は見上げた。上の暗がりに、赤い点滅がある。警告灯。警告灯は事故の印だ。事故があるということは、誰かが欠落を投げ込んだということだ。
投げ込まれた欠落は、ここにある。
白衣が僕の背中を軽く押す。軽い接触。軽い接触は優しさの演出だ。演出された優しさは、支配の入口になる。
僕は歩く。歩けば、飲み込まれる。
飲み込まれる前に、僕はもう一度だけ“あの映像”のリズムを思い出す。地上の祭壇。端末の積み方。光の点滅。短い、長い、短い。雑音の形の合図。
雑音は捨てられる。
捨てられる雑音だけが、後で意味になる。
昇降プラットフォームに乗せられる。足元の金属が冷たい。冷たい金属は、地上の灰を思い出させる。灰は燃えた帳簿の匂いを連れてくる。燃えた帳簿の後に、銃が立った。銃は点を強化した。点は宗教を強化した。
いま、宗教が生存点を神にしている。
神にした瞬間、点は点でなくなる。点は神になる。神になった点は、銃を正当化する。銃を正当化された地底は、地上の土俵へ上がる。
土俵に上がった地底は、食われる。
食われた地底は、死なないために誰かを殺す。
殺しても死なないから善だと呼ぶ。
善は疑われにくい。
疑われにくい善は止まらない。
プラットフォームが動き出す。微細な振動。喉が鳴る音。金属が軋む。軋みは痛みの代替だ。痛みがないと人は気づかない。気づかないまま跨ぐ閾が、いちばん危険だ。
下降ではない。上昇でもない。どちらでもある。喉の中の移動は、方向を失う。方向を失うと、人は目的だけにすがる。目的は宗教に似ている。宗教は止まらない。
壁面の端末が、僕の手首の帯を読み取る。帯は光らない。だが読み取りは走る。走るログ。ログは確定の材料だ。材料は武器になる。
そのとき、端末の表示が一瞬だけ乱れた。乱れは誤差。誤差は事故。事故は盲点。
表示に、短い文字が走る。誰かがわざと残した雑音。
――値:未定義
――記録:断片
――照合:不可
――生存:点にするな
生存:点にするな。
命令の形をした警告。ゼロの声だ。声は音ではない。ログの隙間に紛れた文字。文字は帳簿の言語だ。帳簿の言語で命令するということは、ゼロが帳簿の内側に触れているということだ。触れているなら、彼は喉の中にいる。
喉の中にいるなら、僕の移送は罠ではなく合流かもしれない。
合流は危険だ。危険は矯正される。だが危険がなければ出口はない。
監督官の声がインカム越しに聞こえる。
「表示が乱れた。保守に回せ」
保守。盲点。盲点に人が集まれば、穴は別の場所へ移動できる。移動できる穴は生き残る。
プラットフォームが、途中の区画で一瞬止まった。止まるというのは、喉が詰まったということだ。詰まりは骨だ。骨は僕だ。僕が何もしていないのに詰まるなら、それは僕がすでに骨として使われているということだ。
使われる骨は折れる。
折れた骨は、喉の奥へ落ちる。
落ちた骨は消える。
消える骨の代わりに、喉は新しい骨を探す。探す骨は次の犠牲だ。犠牲は宗教を育てる。宗教は止まらない。
止めたいのは、犠牲そのものではない。
犠牲を回路に変える循環だ。
循環を断つのではなく、循環の閉じ方を変える。閉じ方を変えるために必要なのは、値にできない欠落だ。欠落は名の外側にある。名を出せば値にされる。値にされれば終わる。
だから名は出さない。
生存を点にするな。
その命令だけが、僕の中で固定される。固定は危険だ。危険は矯正される。だが固定しなければ、喉に飲み込まれて溶ける。
プラットフォームが再び動き出す。上の暗がりが少しずつ明るくなる。明るくなるのは光のせいではない。放射線に晒された空の白さだ。白さは善の顔だ。だが地上の白さは善ではない。地上の白さは焼けた結果だ。結果だけが残った白さだ。
結果だけが残る世界に、僕は投下される。
投下される前に、僕は雑音を拾う。拾ってはいけない。ゼロは言った。拾うな。名前にするな。
僕は拾わないまま、覚える。
覚えるだけなら、まだ値にならない。
値にならないまま、喉を越える。




