4部 第1話
喉というのは、飲み込むためにある。
飲み込むという行為は、外を内にする。内になったものは、外ではなくなる。外ではなくなったものは、戻りにくい。戻りにくいというのは、死に似ている。地底は死を避けるために喉を作った。だが喉を作った時点で、飲み込む運命も一緒に作った。
飲み込む運命は、優しい顔をしている。
隔離室の白さが揺れていた。揺れは事故だ。事故は危険だ。危険は矯正される。だが矯正が追いつかない揺れがある。揺れが揺れのまま残るとき、制度は盲目になる。盲目になった制度の中で、人間は一瞬だけ自由になる。
自由は危険だ。
危険だからこそ、自由は短い。
扉の向こうは騒がしい。規定値の足音が乱れている。乱れた足音は忙しさだ。忙しさは盲点を増やす。盲点が増えれば、誰かが通れる。通れるのは、ゼロだ。
壁面の表示板に、断片化したログが走っては消える。照合失敗。再計算不能。値未定義。未定義は空白だ。空白は穴だ。穴は埋められる。埋められる前に移動する穴が、制度の内側で最も強い。
僕は穴を見つめた。見つめるという行為は、祈りに似ている。祈りは制度の言語だ。言語になると取り込まれる。取り込まれた祈りは支配になる。支配にならないように、僕は祈らない。祈らずに、ただ観察する。観察は冷たい。冷たい観察は、罪悪感を薄める。罪悪感が薄い者ほど、生き残る。地底はそれを善と呼んだ。
その善が、いま喉を開こうとしている。
監督官が入ってきた。いつもの薄い顔ではない。今日は薄さが崩れている。崩れた薄さは恐れだ。恐れは亀裂だ。亀裂は光だ。光は火種になる。
「昇降区画が再稼働した」
監督官の声は、報告のふりをした宣告だった。宣告は終端を連れてくる。終端は制度が嫌う。嫌うのに宣告するということは、制度が自分で終端を作りにいったということだ。自分で終端を作る制度は、終端を受け入れていない。終端を受け入れていない終端は、戦争になる。
僕は言った。
「喉が開いた」
監督官が頷かない。
「喉ではない。通路だ。地上への支援線だ」
支援線。柔らかい単語。柔らかい単語が出るとき、硬い現実が背後にある。硬い現実とは、武装だ。監督官の後ろに警備がいる。警備の装備が増えている。増えた装備は抑止だ。抑止は点を強める。点は宗教を強める。宗教は止まらない。
僕は言う。
「支援は、支配の別名になる」
監督官の目が細くなる。矯正の目。だが今日は矯正の速度が遅い。遅いのは忙しいからだ。忙しければ盲点がある。盲点があるなら、ゼロはまだ生きている。
「地上の状況は悪化している」監督官が言う。「“満足生”派が、配給線を“儀式”にした」
儀式。宗教が成熟した証拠だ。宗教は形式を欲しがる。形式は点を欲しがる。点は役所を欲しがる。役所は銃を欲しがる。銃は死を呼ぶ。死は地上の通貨だ。通貨が戻れば、地上は安心する。安心は善だ。善は疑われにくい。
「儀式にしたなら、もう止まらない」僕は言った。
監督官が答える。
「止めるために、喉を開いた」
止めるために開く。矛盾。矛盾は人間の証拠だ。地底の制度が矛盾を口にするということは、制度が自分の論理に詰まっているということだ。詰まりは喉の病だ。病は矯正される。矯正しようとして、喉をさらに広げる。広げた喉は、より多くを飲み込む。
「あなたは移送される」監督官が言う。
移送。隔離から外へ。外へ出されるということは、僕が道具として使われるということだ。道具は値になる。値になれば名が消える。名が消えれば、僕は制度になる。
僕は言う。
「僕を地上へ出すのか」
監督官は答えない。答えない沈黙が肯定になる。
「地上は放射線が高い。僕は耐性がある。便利だ」
便利。便利という単語は、人間を物に変える。物になった人間は、使い捨てられる。使い捨てられる物は、最適化の中で計画値になる。計画値になれば、死は悪ではなくコストになる。コストとしての死は、地底が最も嫌っていた死だ。
監督官が低く言う。
「あなたは“第三”の言語を持っている。地上の宗教化を折るために必要だ」
必要。必要は免罪符。免罪符の上で、どんな暴力も正当化できる。必要と言えば、僕を地上へ投下できる。
投下。
地底が地上へ触れる指先。今度は物資ではない。僕だ。僕は物資になる。物資になった僕が、地上の宗教を折る。折るために僕は折られる。折られるものは、もう戻れない。戻れないのは死に似ている。
僕は言った。
「ゼロは」
監督官の顔がほんの僅かに硬直する。硬直は恐れ。恐れは答えだ。
「ゼロは未確定だ」監督官が言う。「未確定のまま、消えた」
未確定のまま消えた。消えるというのは、捕まっていないという意味にも取れるし、捕まっているがログに載っていないという意味にも取れる。ログに載っていない捕獲は、制度が最も好む形だ。清潔に消せる。清潔に消せば罪悪感がない。罪悪感がなければ止まらない。
僕は息を吐く。数えない。数えないまま、喉の先を想像する。昇降区画。地上の灰。配給の儀式。満足生。生存点。銃。祈り。新しい点庫。新しい宗教。新しい戦争。
そして、その全てを“止める”という名目で、地底が地上へ降りる。
地底が地上へ降りた瞬間、地底は地上になる。
地上になった地底が、死なないことを至上とし続けられるか。続けられない。続けられないなら、地底は地上の宗教を取り込む。取り込めば、死なないために誰かを殺す。殺しても死なないから善だと呼ぶ。善は疑われにくい。疑われにくい善は止まらない。
喉が開いたというのは、そういうことだ。
監督官が言う。
「準備は一時間。移送の前に、あなたに一つ見せる」
壁面の表示板が切り替わる。地上の映像。配給線。人が輪を作っている。輪の中心に、白い端末が積まれている。端末が積まれている様子は、祭壇に見える。祭壇は宗教だ。宗教は供物を欲しがる。供物は死を欲しがる。だがここは満足生だ。死ではなく、生を供物にする。
輪の中の男が腕を差し出す。別の者が端末を押し当てる。光が点る。周囲が手を上げる。祈り。祈りは制度の言語だ。制度の言語が地上で祈りになる。祈りになった制度は、もう議論できない。
監督官が言う。
「彼らは“生存点”を神にした。神は止まらない」
僕は言った。
「止めるなら、神の言語を壊す必要がある」
監督官が言う。
「あなたが壊せ」
命令。命令は矢印だ。矢印は止まらない。
僕は画面の端に、何かの違和感を見る。端末の積み方。光の点滅のリズム。規定値ではない間隔。短い、長い、短い。雑音の形の合図。
僕の指先が、隔離室の壁を叩いたリズムに似ている。
似ているというのは偶然ではない。偶然ではないなら、ゼロはまだ外にいる。外にいるなら、未確定のまま消えてはいない。未確定のまま、喉の先にいる。
喉の先。
閾の向こう。
僕は呼吸を数えない。
数えないまま、決める。
喉が開いたなら、僕は飲み込まれる側ではなく、喉に詰まる骨になる。骨は欠落だ。欠落は埋められる。埋められる前に、欠落は意味をずらす。
意味がずれれば、神は神でいられない。
神でいられなくなった瞬間にだけ、戦争は循環を失う。
循環が閉じ損ねた場所に、次の現実が立つ。




