3部 第8話
閾というのは、跨いだ瞬間に戻れなくなる線のことだ。
戻れないというのは、死に似ている。地底は死を避けるために作られた。だが死を避け続けた結果、戻れない線を増やしてしまった。戻れない線を増やすことは、生き残るための合理だ。合理は善だ。善は疑われにくい。疑われにくい善が、いま地底を地上へ向けて押し出している。
押し出される地底は、地上を飲み込む喉になる。
隔離室の白さは、今日は静かだ。静かというのは、嵐の前の静かさだ。嵐は事故だ。事故は死だ。地底は事故を嫌う。嫌うのに、事故を呼び込んでいる。呼び込んでいる事故は、僕が仕込んだ欠落の波及だ。波及は止められない。止められないなら、波及の方向を変えるしかない。
壁面の表示板が点滅する。保守系統の雑音。ゼロの息。
――“記録だけ”投下、完了
――価値化、阻害
――満足生、分裂
――抑止、遅延
抑止、遅延。
遅延は時間だ。時間があるなら、閾を選べる。閾は、こちらが跨ぐ線でもあり、相手に跨がせる線でもある。地底が地上へ跨ぐ線。地上が地底へ取り込まれる線。あるいは、誰も跨げない線を作るという選択肢。
第三の道は、誰も跨げない線を作ることだ。跨げない線は壁ではない。壁は敵を作る。敵ができれば抑止が必要になる。抑止が必要になれば銃が立つ。銃が立てば点が戻る。点が戻れば宗教が育つ。宗教は止まらない。
だから線は、壁ではなく“無意味”でなければならない。
無意味な線は、制度の矢印が通らない。
矢印が通らなければ、供給も抑止も届かない。届かない場所があるという事実だけが、支配の完璧さを壊す。完璧さが壊れれば、制度は永遠になれない。
永遠になれない制度は、いつか終端を選ぶ可能性がある。
扉が開く。監督官が入ってくる。今日は白衣が二人、警備が一人、後ろにいる。人数が増えるのは、制度が確定に向かっている証拠だ。確定は燃えない帳簿の勝利だ。勝利した帳簿は、僕を値にする。
監督官が言う。
「委員会が決定した。昇降区画を再稼働する」
再稼働。地底の喉を開く。喉が開けば、地底は地上へ出る。出れば介入は救済ではなく占領になる。占領は戦争だ。戦争は地上の土俵だ。地上の土俵に上がった地底は、地上の宗教に食われる。食われた地底は、死を避けるために死を配り始める。
僕は言った。
「抑止ではないと言ったはずだ」
監督官が答える。
「抑止ではない。保護だ。配給線を守る。市場を潰す。偽造を止める。死者を減らす」
死者を減らす。地底の呪文。呪文が唱えられた瞬間、正しさが硬化する。硬化した正しさは止まらない。
僕は言う。
「保護は抑止になる。抑止は点になる。点は宗教になる」
監督官の目が一瞬だけ揺れる。揺れは疲れだ。疲れは亀裂だ。亀裂から、人間が覗く。
「なら、どうする」監督官が言う。
問いが生きている。問いが生きている瞬間にだけ、第三は刺さる。
僕は答えを言わない。言えばログになる。ログになれば確定される。確定された第三は制度に取り込まれる。取り込まれた第三は第三ではなくなる。
だから僕は、答えの代わりに“閾”を提示する。
僕は言った。
「昇降区画の再稼働は、閾だ。跨いだ瞬間、戻れない」
監督官が言う。
「戻れないなら、戻らない」
戻らない。終端の否定。制度の本性。
僕は言う。
「戻らないことが正しいなら、地底は地上になる。地上になる地底は、地上の戦争を引き受ける。引き受ければ、地底の善は地上の悪になる」
監督官が息を吐く。
「言葉で止められる段階ではない」
段階ではない。つまり実行だ。
警備が一歩前へ出る。柔らかい拘束具を持っている。柔らかい拘束は痛くない。痛くない拘束は抵抗を奪う。抵抗が奪われれば、僕は薄まる。薄まれば終わる。
僕は薄まる前に、ひとつだけ言葉を投げる必要がある。言葉は危険だ。危険は矯正される。だが危険がなければ出口はない。
僕は言った。
「ゼロを値にするな」
監督官の目が止まる。止まる目は事故の兆候。事故は死。だがこの事故は、僕の言葉が刺さった証拠だ。
「何の話だ」監督官が言う。
僕は言う。
「欠落を埋めるな。埋めれば、計画は完璧になる。完璧になった救済は、永遠の支配になる」
白衣の一人が端末を操作する。僕の生体ログが表示される。瞳孔。心拍。発汗。嘘の兆候。嘘は地底では病理だ。病理は矯正される。
監督官が低く言う。
「あなたは内部攪乱を行った。証拠は揃う」
証拠。燃えない帳簿。帳簿が勝つ。帳簿が勝てば、僕は値になる。値になれば、僕の名は消える。
僕は言った。
「証拠が揃うなら、地上はもう救えない」
監督官が言う。
「救える。だから再稼働する」
喉を開く。閾を跨ぐ。
その瞬間、壁面の表示板が強く点滅した。保守系統の雑音ではない。もっと広い系統。施設全体の同期に揺れが入った。揺れは事故。事故は危険。危険は矯正される。だが矯正が追いつかない種類の揺れがある。揺れが大きすぎると、制度は忙しさで盲目になる。
盲目になった瞬間が、ゼロの時間だ。
表示板に短い文字列が走る。意味を持たないように見える。だが意味を持たないことが、意味になる。
――記録:断片化
――照合:失敗
――優先度:再計算不能
――値:未定義
値:未定義。
未定義は、制度が最も嫌う状態だ。未定義は空白だ。空白は穴だ。穴は埋められる。埋められる前に、穴は移動する。移動した穴は、支配の手をすり抜ける。
監督官が端末を見て硬直する。硬直は焦り。焦りは誤差。誤差は事故。
「……何が起きている」
僕は答えない。答えれば確定が始まる。確定が始まれば穴は埋まる。埋まれば終わる。
白衣たちがざわつく。警備が通信する。施設が忙しくなる。忙しさが盲点を増やす。盲点が増えると、誰かがどこかを通れる。
その誰かは、ゼロだ。
僕は隔離室の中で、ただ待つしかない。待つという行為は受動だ。受動は制度の味方だ。だが受動が制度の味方になるのは、受動が“意味”を持つときだけだ。意味がなければ、受動は雑音になる。雑音は捨てられる。捨てられた雑音だけが、後で意味になる。
監督官が顔を上げ、僕を見る。
「あなたは……何をした」
僕は言った。
「第三を言語化しないようにした」
監督官の目が揺れる。揺れは理解だ。理解は恐れを生む。恐れは亀裂。亀裂は光。
その光の中で、僕は一つだけ確信する。
閾は、もうそこにある。昇降区画の再稼働は止められないかもしれない。だが再稼働の意味は、折れるかもしれない。占領ではなく、救済でもなく、抑止でもなく、記録でもなく、価値でもない形へ。
形にならない第三。
形にならないものは、しばらく生き残る。
監督官が言う。
「隔離を強化する。あなたは――」
言葉が途切れる。施設全体の照明が一瞬だけ揺らいだ。揺らぎは事故。事故は危険。危険は矯正される。だが矯正する者が忙しすぎると、事故は事故のまま残る。
残った事故の隙間で、ゼロが動く。
動いた結果が何になるか、僕は知らない。知らないことが、今は救いだ。知れば確定される。確定された救いは支配になる。支配にならない救いは、知らない場所からしか来ない。
扉の外が騒がしい。
喉が開く音が、遠くで鳴っている気がした。
僕は呼吸を数えない。
数えないまま、閾を見つめる。
跨がれる閾。
折れる意味。
未定義の値。
そして、名。




