3部 第5話
ゼロという名は、欠落の別名だ。
欠落は、そこにあったはずのものがないという意味でしかない。だが制度の世界では、欠落は“ある”に等しい。あるべき場所にないものは、計算を狂わせる。計算を狂わせるものは危険だ。危険は矯正される。矯正されれば欠落は埋められる。埋められた欠落は、二度と欠落ではなくなる。
だから欠落は、早く動かなければならない。
隔離室の白い壁は、僕の時間を薄めていた。薄めるというのは、流れを均すということだ。均された流れでは、変化が見えない。変化が見えなければ抵抗は起きない。抵抗が起きなければ制度は滑らかに進む。滑らかな進行は善だ。善は止まらない。
矯正の刺激は、今日も規定値で僕を撫でてくる。撫でられるたびに、僕の中の角が少しずつ削られる。角というのは、怒りや恐れではない。怒りや恐れは制度に取り込まれる。取り込まれた怒りや恐れは、正しさの燃料になる。角はもっと小さい。名を名として握り続けるための、微細な棘だ。
リーヴ。
ゼロ。
僕は口に出さない。出せばログになる。ログになれば確定される。確定された名は制度の所有物になる。所有された名は数値に溶ける。数値に溶けた名は、もう名ではない。
名が名でなくなると、人間が人間でなくなる。
扉が開く。監督官が入ってくる。薄い顔。薄い声。薄い言葉。薄い言葉は清潔で、清潔は善だ。善の言葉は、いつも結論を先に持ってくる。
「欠落の追跡を開始した」
追跡。追跡という言葉は狩りの言葉だ。地底は戦争から逃げたはずなのに、狩りの語彙を捨てられない。捨てられない語彙は構造を暴く。構造は同じだ。敵を見つけ、印を付け、囲い、削り、薄め、消す。
消すのは死より清潔だ。
僕は言った。
「欠落は埋められない。外にあるからだ」
監督官の目が僅かに硬くなる。硬さは焦り。焦りは事故の兆候。事故は死。だがこの事故は、地底の死ではなく地底の“遅延”として現れる。遅延は時間だ。時間は、唯一の資源だ。
「外にあるという主張は、あなたの自己正当化だ」監督官が言う。「外部媒体の所在は追える。保守通路のアクセスログは残る」
残る。燃えない帳簿。帳簿が残る限り、制度は確定できる。確定できる制度は強い。強い制度は止まらない。
僕は言った。
「ログが残るのは、ログが一貫しているときだ」
監督官が僕を見る。冷たい目。冷たい目の奥に、ほんの僅かな揺れがある。揺れは個人の残骸だ。残骸がある限り、彼女はまだ人間だ。人間である限り、恐れを持てる。恐れは亀裂だ。亀裂は光だ。光は火種になる。
「一貫している」監督官が言う。「だから追える」
僕は小さく息を吐いた。数えない。数えないことで、矯正の滑らかさに対抗する。
「一貫しているように見えるのは、見えない欠落がまだ表面化していないからだ」
監督官は短く言った。
「虚勢だ」
虚勢。便利な否定。否定が出るのは、制度が揺れている証拠でもある。揺れているから、言葉で抑えようとする。
壁面の表示板が点いた。監督官の端末と同期して、隔離室の壁に地上の状況が映し出される。市場遮断の後の地上。配給列の外側にある影。影が濃くなっている。影の中で光が売買され、端末が貸借され、偽造の光がちらつく。光の市場が、死の市場より静かに人を壊していく。
監督官が言う。
「内部の欠落より、外部の混乱が大きい。あなたの“名”の話は後回しだ」
後回し。地底で後回しは弱さの告白だ。弱さを告白した制度は、速度を上げる。速度を上げれば遅れを取り戻せると信じる。信じるのは宗教だ。宗教は止まらない。
僕は言う。
「後回しにした欠落は、いつか支配の根を腐らせる」
監督官の目が細くなる。
「あなたは腐敗の比喩を好む」
好むのではない。腐敗は地底の恐怖だからだ。恐怖を呼べば、制度は一瞬だけ足を止める可能性がある。止まらない善を止めるには、善が嫌う単語を投げ込むしかない。
監督官は扉へ向かいながら言った。
「矯正を継続する。あなたの発話は記録する。欠落は埋める」
埋める。埋めるという単語が出るたびに、僕の中で何かが確信に変わっていく。制度が“埋める”と宣言するということは、穴がそこにあると制度自身が認めたということだ。穴がある限り、制度は完璧ではない。完璧でない制度は焦る。焦りは誤差。誤差は事故。事故は盲点を増やす。盲点が増えれば、ゼロが動ける。
扉が閉まる。
閉まった扉の向こうに、規定値の足音が遠ざかる。足音が遠ざかると、隔離室は静かになる。静かになると、僕の中の反芻が少しだけ増える。反芻は矯正が嫌う。嫌われる反芻を、僕はわざと育てる。反芻を育てるという行為は、小さな抵抗だ。
表示板が突然切り替わった。地上ではない。地底内部のログ。画面の角に、保守ノード識別子が出ている。監督官が残していったものではない。残していったにしては雑すぎる。雑さは地底では事故だ。事故の雑さは、意図の形をしている。
ログの一行。
――同期遅延:保守系統03
――原因:外部媒体搬出に伴う一時的欠落
――追跡:未確定
――注記:ゼロ値参照
ゼロ値参照。
ゼロ値という言い方は、地底の語彙だ。数学の言葉。だがここで“ゼロ”と“値”が結びつくのは、偶然ではない。ゼロは名だ。名を値にするのが制度だ。制度がゼロを値にし始めたということは、ゼロが追跡対象になったということだ。追跡対象になったゼロは危険だ。危険は矯正される。矯正される前に、ゼロは動かなければならない。
ログが続く。
――搬出経路:排気グリル経由
――回収:保守通路内
――回収者:識別不能
――識別不能:通常は存在しない
通常は存在しない。
通常は存在しないという文言が、僕の胸を少しだけ温めた。温まりは希望に似ている。希望は危険だ。危険は矯正される。だが希望がなければ、人間は制度に溶けるしかない。
識別不能。つまりゼロは、制度の目を一度だけ外した。外したという事実だけで、彼はゼロではなく“穴”になった。穴は埋められる。埋められる前に穴は移動する。移動できる穴が、制度の中で最も強い。
画面がまた切り替わる。今度は短いメッセージ。形式が違う。監督官の端末の形式でも、解析班の形式でもない。保守系統の簡易通信。保守系統は盲点が多い。盲点が多い場所で、人間は小さな言葉をやり取りできる。
メッセージは短い。
――二分前
――排気
――指先
二分前。排気。指先。
僕は息を止めそうになった。止めない。止めると生体ログが跳ねる。跳ねれば検知される。検知されれば矯正される。矯正されれば薄まる。
二分前は、ゼロの合図だ。排気は外部媒体の経路だ。指先は、地上介入の比喩でもあり、地底の“触れ方”でもある。指先をどう触れさせるか。指先の握りをどう緩めるか。第三の道は、指先の形を変えることでしか開かない。
メッセージは続く。
――市場:光の偽造
――遮断:強化予定
――欠落:埋めに来る
――あなた:話すな
話すな。命令。だがこの命令は、制度の命令ではない。ゼロの命令だ。ゼロが命令できるほど、彼は動いている。動いている者の命令は、時に救いになる。救いは首輪にもなる。だが今の救いは首輪ではない。首輪にしないために、僕は従うべき命令と従ってはいけない命令を分けなければならない。
話すな。
話すなというのは、言語を制度に渡すなという意味だ。正しい説明を作るな。正しい説明は止まらない。止まらない計画を止めるために、言語を渡すな。渡さずに、欠落を広げろ。
僕は考える。
欠落を広げるとは何か。
欠落は穴だ。穴は空白だ。空白はモデルの収束を遅らせる。遅らせるだけでは足りない。遅らせるだけなら、最適化は別のデータで埋める。埋められない欠落が必要だ。埋められない欠落とは、数字にならないものだ。数字にならないものとは、名だ。だが名は、いずれ拾われる。拾われた名は制度の辞書に載る。載れば終わる。
ならば名の前に、名が名であるための条件を壊す必要がある。
条件とは、物語だ。
地上の点制度は、死を通貨にし、死に物語を付着させた。満足死。完遂。静粛。象徴。観衆同期。物語が通貨を支えた。地底の生存指標も、通貨になり、物語が付着し始めている。救い。選択。治療。光。装着。
物語が通貨を支えるなら、物語の足場を崩せば通貨は揺らぐ。揺らげば市場は乱れる。乱れは事故だ。事故は危険だ。危険は矯正される。矯正が忙しさを生む。忙しさが盲点を増やす。盲点が増えれば、ゼロはさらに動ける。
だが乱れが増えすぎれば、地上で死が増える。死が増えれば、僕は監督官に利用される。僕の言葉が“混乱の原因”として確定される。確定されれば僕は矯正される。矯正されれば薄まる。薄まれば、名は守れない。
第三の道は、乱すことではない。乱れを作ることでもない。
第三の道は、制度が“正しい”と思い込む矢印を、別の方向へ少しだけ折ることだ。折れた矢印は、誰にも気づかれないうちに、別の場所へ到達する。到達した場所で初めて、制度は自分が外れていたと知る。
外れたと知った瞬間、制度は二択を迫られる。戻るか、進むか。
戻るというのは、終端を受け入れるということだ。制度は終端を嫌う。嫌うから戻れない。戻れないなら進む。進めば支配が強まる。強まった支配は止まらない。
だから、制度が“戻る”以外の第三を選ぶように、矢印の形を変えなければならない。
僕の中に、地上の灰が立ち上る。紙が燃える匂い。帳簿が燃えた。燃えたことで、点の確定が一時的に崩れた。崩れた瞬間、地上は自由になったか。自由になったのは、ほんの一瞬だった。自由の一瞬の後に、もっと硬い執行装置が立った。銃。処罰。査定。死の配点。
正しく壊すと止まらない。
焼却は正しい破壊だった。正しい破壊の後に、もっと硬い制度が立った。
ならば第三は、正しく壊さない。壊さないまま、無効化する。無効化は、意味の上で起こす。意味をずらす。ずれた意味は、制度の辞書に載りにくい。
そのために、ゼロは外部媒体を持っている。欠落の断片。名の周辺の欠落。欠落は穴。穴は音を出す。音が出たことで、制度は“埋める”と言った。埋めると宣言した制度は忙しくなる。忙しい制度の盲点で、ゼロは次の一手を打てる。
僕はその一手を、隔離の中から推定するしかない。
推定は礼儀だ。推定は断定を許す。断定は責任を薄める。薄めた責任は委員会の燃料になる。だから推定は危険だ。だが危険がなければ、僕は何もできない。
壁面の表示が、もう一度だけ点滅した。短いメッセージ。今度はもっと短い。
――落とすな
――拾うな
――名前にするな
落とすな。拾うな。名前にするな。
それは矛盾だ。落とさなければ拾えない。拾わなければ持てない。名にしなければ守れない。
矛盾は人間の証拠だ。ゼロが矛盾を許容している。許容しているということは、彼が制度の外側に片足を出しているということだ。片足を出した者は危険だ。危険は矯正される。矯正される前に、僕は彼を支える必要がある。
支えると言っても、ここからできることは限られている。
話すな。
なら、話さないまま書くしかない。書くとログになる。ログは確定される。確定されたログは制度の所有物になる。所有された言葉は武器になる。
だから書くなら、制度が読めない形で書く。
読めない形とは、雑音だ。雑音は捨てられる。捨てられた雑音だけが、後で意味になる。
僕は隔離室の壁に指を当てた。センサー。触れると反応が返る。反応を返す壁は、地底の皮膚だ。皮膚に傷をつけると警報が鳴る。警報が鳴れば矯正が来る。矯正が来れば薄まる。
傷はつけない。
代わりに、リズムを刻む。規定値の外のリズム。二分前のリズム。排気のリズム。指先のリズム。
僕は壁を、軽く、一定でない間隔で叩いた。短い、長い、短い。地上で誰かが昔使っていた合図に似ているが、地上の合図をそのまま持ち込むのは危険だ。危険は矯正される。だからこれは地上の合図ではない。地底の規定値をずらすための雑音だ。
雑音が検知されるかもしれない。検知されれば矯正が来る。だが矯正が来れば、監督官が忙しくなる。忙しくなれば盲点が増える。盲点が増えれば、ゼロは動ける。
壁が、ほんの僅かに光った。反応。反応は記録される。記録されるなら危険だ。だが反応が記録されるということは、誰かがそれを見ているということでもある。見ている誰かが、制度なのか、ゼロなのかは分からない。
分からないという不確かさは、地底では事故だ。だが事故がなければ出口はない。
扉が開く。白衣が入ってくる。矯正の補助。目が僕の手元を見る。見られた。危険。矯正。
白衣が淡々と言う。
「発話の代替行動が増えている。矯正強度を上げる」
強度を上げる。滑らかな暴力が少しだけ強くなる。強くなれば角が削られる。削られれば名が薄まる。薄まれば終わる。
僕は言わない。話すな。ゼロの命令。命令に従うことで、僕は少しだけ彼を支える。支えるというのは、沈黙を守るということだ。沈黙は制度の味方でもある。味方である沈黙を、味方ではない沈黙に変える。沈黙の質を変える。質を変えた沈黙は、制度の辞書に載らない。
白衣が装置を起動する。規則的な音。規則的な刺激。規則的な眠り。
僕は呼吸を数えない。
数えないまま、地上の市場を思う。光の通貨。貸借。偽造。遮断の強化。取り締まり。取り締まりの点数化。点庫の復活。生存の点庫。死なないための処罰。
そのどこかで、ゼロが欠落を使う。欠落を名にしないまま、意味をずらす。意味がずれれば、正しい説明が成立しない。成立しなければ、委員会は迷う。迷えば遅れる。遅れれば時間ができる。
時間ができたら、次に必要なのは出口だ。
出口は地上にあるのか。地底にあるのか。あるいは、その間の喉にあるのか。
昇降区画。地底の喉。喉は飲み込む。飲み込んだものは戻しにくい。戻しにくい場所にこそ、詰まる骨が必要だ。骨は欠落だ。欠落はゼロだ。
矯正の刺激が、僕の意識を滑らかにし始める。
滑らかになる前に、僕は一つだけ思考を固定する。固定は危険だ。危険は矯正される。だが固定しなければ、僕は溶ける。
ゼロを値にするな。
名を値にするな。
値にされる前に、名を名のまま逃がせ。




