3部 第2話
投下という言葉は、上から下へ落ちる物の話をしているだけのはずなのに、いつも支配の匂いがする。
上から落ちるものは、重力に従っているように見える。重力は自然だ。自然は善悪を持たない。善悪を持たないものは疑われにくい。疑われにくい形で落ちてくるものほど、深く刺さる。刺さったものは抜けにくい。抜けにくいものは制度になる。制度は、人間の骨の位置を変える。
矯正の音は、僕の骨の位置を静かに動かしていた。
隔離室の天井から降る規則的な機械音。規則的な刺激。規則的な眠り。眠りは善だ。善は疑われにくい。疑われにくい眠りの中で、地底の計画は地上へ向けて動いている。眠っている間に世界が変わるというのは、最も恐ろしい変化の仕方だ。変化は本来、痛いはずだ。痛いから気づける。だが痛みのない変化は、気づいたときにはもう取り返しがつかない。
扉の向こうから、端末の通知音が断続的に聞こえる。規定値の音。規定値の音は、地底の鼓動だ。鼓動が速い。速いというのは、地底が忙しいということだ。忙しい制度は盲目になる。盲目になった制度は事故を起こす。事故は死だ。だが地底の死は、肉体ではなく意味の死だ。意味が死ぬと、名が死ぬ。名が死ぬと、人間が死ぬ。
監督官が入ってきたのは、僕のまぶたが半分ほど閉じた頃だった。彼女の足音は規定値。規定値は正しい。正しさは止まらない。
「投下が成功した」
成功。成功という言葉は、結果だけを肯定する。過程の血を消す。血が消えると罪悪感が消える。罪悪感が消えると次がやりやすくなる。次がやりやすい計画は止まらない。
僕は言った。
「地上は、受け取ったのか」
監督官は頷かない。頷きは感情の痕跡だ。地底の職務は感情を薄める。だから言葉だけが返ってくる。
「第一便は四拠点。投下は無抵抗。回収率は想定値を上回った」
無抵抗。回収率。数字が並ぶ。並べば並ぶほど、人間がいなくなる。地上は数字ではなかった。飢えは数値化できるが、飢えの顔は数値ではない。乾きも同じだ。乾きの声は、数値より先に喉を裂く。
僕は言う。
「飢えている場所に落ちれば、無抵抗に見える」
監督官の目が僅かに冷える。冷えは矯正の続きだ。
「あなたの感情混入は、まだ強い。地上の苦痛を過大評価している」
過大評価。地底が使う便利な否定。苦痛を過大評価と言い換えると、苦痛はデータへ変換される。データへ変換された苦痛は、政策の材料になる。材料になった苦痛は、誰かの善の根拠になる。根拠になった苦痛は、本人の苦痛ではなくなる。
「投下物資は、呼吸補助と飲料と抗線量」監督官は続ける。「死者は減る。これは善だ」
善。善と言い切る声の滑らかさに、僕は地上の点制度を思い出す。点は正しい。点は公平だ。点は冷たい。冷たい公平は、熱い死を量産した。地底の善も冷たい。冷たい善は、熱い生を量産するのか。それとも薄い生を量産するのか。薄い生は、死ではないが、生でもない。
僕は言った。
「装着は」
監督官が端末を操作する。壁面の表示板に映像が出る。地上からの俯瞰映像。瓦礫。灰。黒い地面。遠くに、崩れた建物の骨格。骨格の間を、人が動く。人の動きは規定値ではない。規定値ではない動きは、生きている。
空が裂けて、白い点が落ちる。点ではない。物資のパッケージ。地底が落とす善の塊。落下傘。緩やかに降りる。緩やかな降下は、優しさの演出だ。演出された優しさは、支配の入り口になる。
地上の人間が集まる。走る。叫ぶ。映像は音を拾わない。音がない地上は、地上ではない。地底は音を消して地上を把握する。音を消すことで罪悪感を消す。罪悪感が消えれば、さらに投下できる。
監督官が言う。
「回収後、端末の試験配布に移行する。装着は選択として提示する」
選択。責任の投擲装置。選ばせる形にすると、支配は清潔になる。清潔な支配は罪悪感がない。罪悪感のない支配は止まらない。
僕は言った。
「選択に見せるなら、選ばない側に罰が要る」
監督官の視線が僕を刺す。刺す視線は、矯正の針だ。
「罰ではない。配分の最適化だ。装着者は記録が取れる。記録が取れれば無駄が減る。無駄が減れば多くが生き残る」
生き残る。地底が信仰する単語。生き残ることは善だ。だが生き残ることが通貨になった瞬間、生き残りは配られる。配られる生き残りは奪われる。奪われる恐怖は、市場を生む。市場は戦争を生む。戦争は循環を生む。
僕は言う。
「無駄が減ると言った。無駄は誰だ」
監督官は答えない。答えない沈黙が、答えになる。答えになる沈黙は、委員会の宗教の一部だ。宗教は言葉を薄める。薄めた言葉は、人間を薄める。
壁面の映像が切り替わる。地上の別の拠点。ここは戦線の匂いが濃い。銃器の残骸。コンクリートの焦げ。壁に書かれた文字。点庫の痕跡。配点の規則。静粛度。完遂度。象徴性。観衆同期。あの語彙が、まだ壁に残っている。語彙が残っている限り、制度は死んでいない。
そこへ、地底の物資が降る。
降る瞬間、地上の人間が分裂する。集まる者と、距離を取る者。距離を取る者は銃を持っている。銃は通貨の執行装置だ。通貨の執行装置が、善の塊を見上げている。善が落ちた場所に、死の制度が触れる。触れた瞬間に、何かが混ざる。
監督官が言う。
「抵抗の形を出せ。地上はどう反応する」
僕は矯正の残響で滑らかになりかけた思考を、わざとざらつかせる。ざらつきは事故だ。事故は危険だ。危険は矯正される。だが矯正されない短い時間が必要だ。
僕は言った。
「地上は二通りに反応する。ひとつは飢えの反射で、善を掴む。もうひとつは制度の反射で、善を点にする」
監督官の眉が僅かに動く。誤差。誤差は個人の兆候。
「点にする」
僕は続ける。
「投下物資を配給の権限にする。誰が配るかで支配が決まる。配る権限が点庫の代替になる。死の通貨が崩れても、配給の通貨が立つ。通貨が立てば、また貸借が生まれる。未来が縛られる」
監督官が言う。
「ならば地底が配る。権限を地上に渡さない」
渡さない。つまり統治だ。統治を救済と呼ぶ。救済の顔をした統治は、抵抗されにくい。抵抗されにくい統治は止まらない。
僕は言った。
「地底が配れば、地上は地底に従う。従った地上は、生き残るために首輪を選ぶ。選ばされた選択は、選択ではない」
監督官の声が低くなる。低い声は権限の声だ。
「選択ではないなら、何だ」
僕は答える。
「契約だ。生存の契約。契約は、破ると死ぬ」
死ぬ。地底は死を嫌う。嫌うから契約を正当化する。契約を正当化すれば、死は契約違反の結果になる。結果になった死は、制度の罪ではなく個人の罪になる。罪が個人に落ちれば、制度は清潔でいられる。清潔な制度は止まらない。
監督官が言う。
「地上の死を減らせるなら、契約でも構わない」
構わない。ここで、善は形を選ばない。善は結果しか見ない。結果だけを見る善は、人間を置き去りにする。
僕は思う。
正しく壊すと止まらない。
地底は、地上の死の制度を正しく壊そうとしている。正しく壊せば、地底の生の制度が正しく立つ。正しく立った制度は、地上と地底をまとめて覆う。覆われた世界は、もう燃えない。燃えない世界は灰を残さない。灰のない世界は、忘れる。忘れた世界は、繰り返す。
監督官が、別の表示を出す。地上の個体ログ。投下物資の回収者の生体データ。心拍。体温。呼吸。線量。そこに、タグが付いている。
――生存指標(仮)
――装着候補
――配給優先度:高
優先度。最優先の仲間。優先度が生まれた瞬間に、差が生まれる。差が生まれた瞬間に、争いが生まれる。争いが生まれた瞬間に、制度が必要になる。制度が必要になると、制度は自分を正当化する。
僕は言った。
「もう始まっている。点庫は形を変えて生まれる」
監督官が言う。
「始まっているなら、止められない。最適化で制御する」
制御。制御は支配の別名。支配は止まらない。
僕の口の中で、名がざらつく。リーヴ。ゼロ。名は数字になりにくい。数字になりにくいものだけが、制度の外に残る。外に残るものがある限り、完全な制御はできない。できない制御は焦る。焦りは誤差。誤差は事故。事故は希望。
僕は監督官に言った。
「投下は地底の指先だ。指先は震える」
監督官は答えない。答えないが、目が揺れる。揺れは恐れ。恐れは亀裂。亀裂は光。
僕はその光に賭けるしかない。
隔離室に戻される前に、もう一度だけ映像を見る。地上の瓦礫の上に、白いパッケージが転がっている。その白さは、地底の白さと同じだ。白さが地上へ降りた瞬間、地上の灰の上に“清潔”が乗る。清潔は滑らかだ。滑らかさは眠りに似ている。
眠りの前に、人は何を選ぶのか。
飢えに従って掴むのか。制度に従って点にするのか。あるいは、名の反射で拒むのか。
拒むには、拒む言語が要る。言語が要るなら、僕は削られながらでも言語を残す必要がある。矯正が僕を滑らかにしようとしても、僕はざらつきを残す。ざらつきは事故だ。事故は危険だ。危険は矯正される。だが危険がなければ、どこにも出口は生まれない。
扉が閉まる。
機械音がまた始まる。規則的な眠り。規則的な善。
僕は呼吸を数えない。
数えないまま、地上に落ちた白さを想像する。白さは救いに見える。救いに見えた瞬間、首輪は締まる。締まる首輪を、外からではなく内側から緩める方法を考える。
第三の道は、まだ言葉にならない。
言葉にならないものだけが、制度の辞書から逃げられる。




