3部 第1話
追加矯正の手順は、祈りに似ている。
祈りは、やり方が決まっている。手をこうして、言葉をこうして、呼吸をこうして、終われば安心する。安心は善だ。善は疑われにくい。疑われにくいものほど支配する。地底の矯正は、その構造を忠実に踏襲している。違いは、祈りの相手が神ではなく制度だという一点だけだ。
僕は隔離室に戻され、白い壁を見上げていた。壁面の文言は変わらない。
死なないことが善である。
変わらない文言は、変わる世界を覆うためにある。世界が変わると人間は不安になる。不安は事故を呼ぶ。事故は死を呼ぶ。死は悪だ。だから文言は固定される。固定された善の下で、世界だけが滑らかに改造される。
拘束具は柔らかい。痛くない。痛くない拘束は拘束に見えにくい。見えにくい拘束は抵抗を減らす。抵抗が減れば矯正は成功する。成功した矯正は、僕の中の角を削る。
角というのは、名だ。匂いだ。熱だ。紙が燃える匂いと、金属が軋む音と、肩が跳ねる瞬間の重さ。
リーヴ。
ゼロ。
僕はその二つを、矯正の滑らかさの中で舌先に乗せ、口に出さないまま転がしていた。口に出せばログになる。ログになれば帳簿になる。帳簿になれば確定される。確定された名は、制度の所有物になる。所有された名は、いずれ数字に溶かされる。
僕は名を数字にしたくない。
隔離室の扉が開く。監督官が入ってくる。灰色の制服。冷たい目。冷たい目は恐れの反射だ。恐れは事故の予兆だ。事故は死だ。監督官は死を嫌う。嫌うから善を固定する。固定した善が、別の死を生む。
監督官が言う。
「行為の意図を確認する」
確認。確定の前段階。確定は帳簿だ。帳簿は燃えた。だが地底には燃えない帳簿がある。ログ。議事録。生体データ。僕の呼吸の乱れ。瞳孔の収縮。
僕は言った。
「遅らせただけだ。止めていない」
監督官の目が僅かに揺れる。揺れは個人の残骸だ。残骸がある限り、人間はまだ制度になりきっていない。
「遅らせたことで、死者が増える可能性がある」監督官が言う。「あなたはそれを容認した」
容認という言葉は、責任の投擲だ。責任を投げつけることで、制度は自分を清潔に保つ。清潔は善だ。善は滑らかだ。滑らかな善は、血を嫌う。血を嫌うくせに、血の結果だけを欲しがる。
僕は言った。
「容認していない。計画が滑らかに進めば、もっと多くが削られる」
監督官が小さく息を吐く。その吐息は、焦りの形をしている。
「削られるとは何だ」
疑問符はない。だが問いはある。問いがあるという事実は、監督官にも亀裂があるということだ。亀裂は光を通す。光が通れば火になり得る。地底は火を嫌う。だから亀裂は埋められる。
僕は言った。
「名だ。地上の人間の輪郭だ。あなたたちは生存を通貨に置換する。置換は正しいように見える。正しい置換は止まらない。止まらない置換は、人間を制度の部品にする」
監督官の目が冷える。冷えは矯正の開始だ。
「あなたは地底の善を言葉で汚している」
汚す。地底で最も強い侮辱だ。汚れは菌の比喩であり、地底の最も古い恐怖を呼び起こす。菌は事故だ。事故は死だ。死は悪だ。悪を避けるために、汚れは除去される。
監督官が言う。
「矯正を再開する。あなたの言語は過剰に外部へ寄っている」
外部。地上。灰。匂い。熱。
僕の言語が外部へ寄っているのは、外部が存在するからだ。存在するものを存在しないことにはできない。できないのに、地底はそれをしようとする。存在を消すことを治療と呼ぶ。治療の顔をした消去は、最も静かな殺人だ。
監督官が身を翻し、扉の外へ合図する。白衣が二人入ってくる。装置が運び込まれる。規則的な音。規則的な刺激。規則的な眠り。
眠りは善だ。
善は疑われにくい。
疑われにくい場所で、地底は指先を伸ばす。
その瞬間、壁面の端末が短く鳴った。規定値の音。規定値の音は手続きの呼吸だ。監督官が端末を一瞥する。その目が、僅かに固まる。固まりは事故の兆候だ。事故は死だ。だがこの事故は死ではない。別の種類の事故だ。
監督官が言う。
「介入が始まった」
始まった。確定された未来。始まったものは止めにくい。止めにくいものほど、地底は好む。好むというより、好まざるを得ない。始めた以上、終端へ向かうしかないと信じる。信じることが、委員会の宗教だ。
僕は言った。
「投下……か」
監督官は答えない。答えない沈黙が、肯定になる。肯定は燃料だ。燃料で計画は燃える。燃える計画は火ではない。火は灰を残す。計画は灰を残さない。灰を残さない燃焼は、最も恐ろしい。
白衣のひとりが淡々と告げる。
「地上主要拠点へ物資投下。第一便。呼吸補助、飲料、抗線量。装着選択の導入を開始します」
装着選択。首輪を選ばせる。選ばせるという形で責任を個人へ押し付ける。押し付けた責任で、地底は清潔を保つ。清潔な支配。痛みのない拘束。痛みのない支配は、抵抗されにくい。
監督官が僕を見る。
「あなたは地上を知っている。抵抗の形を言え」
抵抗の形。抵抗をモデル化しろ。抵抗を仕様に落とせ。仕様になった抵抗は、抵抗ではなくなる。
僕は言った。
「抵抗は二つある。ひとつは飢えの反射。もうひとつは名の反射」
監督官が眉を動かす。誤差。誤差の瞬間にだけ、人間は覗ける。
「名……」
僕は言った。
「地上は死を通貨にしていた。通貨には物語が付着する。物語が付着した通貨は、ただの数値じゃない。名が付く。英雄。殉死。満足。あなたたちが生存指標を配れば、そこにも物語が付く。付いた瞬間に、生存は通貨になる。通貨になれば争いになる」
監督官が首を振る。
「物語は制御できる。端末が記録し、履歴が正しさを支える。正しい履歴は事故を減らす」
正しい履歴。燃えない帳簿。帳簿は確定装置だ。確定装置が増えると、世界は閉じる。閉じた世界は止まらない。
僕は言った。
「履歴が正しいほど、誰も疑わない。疑わないほど、奪われる」
監督官の目が冷える。矯正の手順が再び僕の皮膚へ近づく。だが、ここで僕を削っている間にも、地底の指先は地上へ触れている。触れた瞬間に地上は変質する。変質した地上は、元に戻らない。
元に戻らない世界で、何を守るのか。
守るべきなのは、止まらない善か。それとも、止まらない善に躓くための小さな事故か。
僕の胸の内側には、もう外部媒体はない。外部媒体はゼロが持っている。ゼロが生き残れば、空白は外にある。空白が外にある限り、計画は完全には収束しない。収束しなければ、指先は震える。震える指先は、掴み損ねる可能性がある。
可能性は小さい。
だが小さい可能性がない世界は、完全に死んでいる。
監督官が言う。
「矯正を開始する。あなたの言語は危険だ」
危険。便利な単語。危険と言えば、何でも削れる。削れば滑らかになる。滑らかになれば安定する。安定は善だ。
僕は言った。
「危険なのは言語じゃない。指先だ」
監督官の目が一瞬だけ揺れた。揺れは恐れ。恐れは亀裂。亀裂は光。光は火種。
白衣が装置を起動する。規則的な音。規則的な刺激。規則的な眠り。
僕は呼吸を数えない。
数えないまま、遠い地上を想像する。灰の匂い。金属の軋み。腹の空き方。喉の渇き方。そんな場所に、地底の清潔な物資が降る。降った物資は救いに見える。救いに見えた瞬間、首輪は柔らかく締まる。
柔らかい首輪は、外しにくい。
矯正の音が、僕の思考の角を削り始める。その削りの中で、僕は一つだけ繰り返す。反芻を嫌う装置に逆らうように。
名は数字になりにくい。
数字になりにくいものだけが、制度の外側へ根を伸ばす。
地底の指先が地上に触れた今、僕に残された仕事は、指先を折ることではない。指先が握りしめる“正しさ”の形を、少しだけ歪ませることだ。
歪みは事故だ。
事故は死だ。
だが死なない世界で必要なのは、たぶん死ではなく、事故の方だ。




