2部 第8話
昇降区画という言葉は、地底の喉だ。
喉は外界を飲み込む。飲み込んだものを消化し、栄養だけを抽出する。抽出された栄養は善になる。善の名の下で、不要なものは吐き出される。吐き出される不要物は、だいたい人間だ。人間の矛盾、熱、匂い、名、そして、止まらない善を止めたいという意図。
僕は共同区画の寝台で目を閉じながら、外部媒体の冷たさを胸の内側で確かめていた。冷たい道具は、火ではない。だが火種になり得る。火種は燃える。燃えるものは制御できない。制御できないものは事故だ。事故は死だ。死を避けるために地底は作られた。地底が死を避け続けた結果、事故が必要になってしまった。
その矛盾が、僕の中で灰のように舞っている。
規定時刻。呼び出し音。規定値の音は、反射で身体を起こす。反射は制度の味方だ。制度の味方の反射を、僕は利用する。利用して、制度の盲点へ滑り込む。
監督官が来る。灰色の制服。薄い表情。薄い表情の奥に、硬い恐れがある。恐れは事故の予兆だ。監督官は事故を嫌う。嫌うから僕を縛る。縛ることで事故を減らす。事故が減れば善が増える。善が増えれば、止まらない。
監督官が言う。
「準備が整った。昇降区画へ」
僕は頷かない。頷きは合意だ。合意は燃料だ。燃料を与えない小さな抵抗だけが、僕の輪郭を保っている。
廊下を歩く。白さ。一定の空調。一定の照度。一定は人間を眠らせる。眠りは善だ。善は疑われにくい。疑われにくい場所でこそ、事故は起きる。
昇降区画の前には検問がある。検問は地底の戦争だ。地底は戦争を捨てたふりをしているが、戦争の形式は捨てられない。捨てられない形式は、安全の名で戻ってくる。
白衣。端末。読取機。手荷物検査。生体スキャン。
監督官が言う。
「証人。あなたの役割は、地上側への説明だ。装着選択を円滑にするための言語が要る。あなたは地上の言語を持ち帰った」
言語。武器。政策。救済。支配。
止まらない単語の連鎖が、僕の喉元まで来ている。
僕は言った。
「地上は言語で動いていない。匂いと飢えと音で動いている」
監督官の目が冷える。冷えた目は矯正の手順を思い出している。
「だからあなたが必要だ」監督官が言う。「翻訳する。地上の雑音を、地底の秩序に」
秩序。秩序は善。善は止まらない。
検問で腕を上げる。生体スキャンの光が皮膚を撫でる。撫でる光は優しい。優しい暴力は最も危険だ。危険だから気づかれない。
読取機が鳴る。短い警告音。規定値ではない音。事故の音。僕の胸の内側の外部媒体が、金属として検知された。
監督官の視線が僕に刺さる。刺さる視線は冷たい。冷たさは善の刃だ。
「何だ」監督官が言う。
疑問符はない。断定に近い圧がある。
僕は言った。
「胸の補助材だ。矯正の後で痛みが残っている」
嘘。だが地底では嘘は病理になる。病理は矯正の対象だ。だから嘘は、制度の語彙で偽装しなければならない。医療。痛み。補助。安全。
白衣が近づく。端末で照合する。照合は確定だ。確定は帳簿だ。帳簿は燃えた。だが地底には燃えない帳簿がある。ログ。履歴。生体データ。
監督官が言った。
「追加検査」
終わりだ。ここで確定されれば、外部媒体は没収される。没収されれば空白は埋められる。埋められれば計画は収束する。収束すれば介入は始まる。始まれば止まらない。
僕は薄片の冷たさを思い出す。
一度だけ。
一度だけの切符を、今切るのか。ここで切れば、僕は地底で死ぬ。社会的に。隔離され、矯正され、薄められ、消える。だが切らなければ、地上が地底にされる。地上が地底にされれば、名が消える。名が消えれば、人間が消える。人間が消える世界は、生きているのか。
僕は呼吸を数えない。
数えないまま、手首の内側に指を滑らせる。薄片。冷たい輪郭。ここが僕の最後の能動になる。
僕は検問の読取機へ、薄片を当てた。
小さな音。開錠。だが開いたのは扉ではない。検問の内側の保守モードだ。規定値の世界に、誤差を注入するための穴。
白衣が瞬間的に硬直する。端末の表示が揺れる。同期が乱れる。乱れは事故だ。事故は検知される。検知される前に、僕は動く。
胸の内側から外部媒体を取り出し、床の排気グリルへ滑り込ませる。排気グリルの奥は保守通路に繋がっている。地底は保守のために穴を残す。残した穴が、制度の喉に刺さる骨になる。
監督官の声が飛ぶ。
「やめろ」
やめろ。短い命令。短い命令は議論を許さない。議論を許さない命令は、焦りの証拠だ。
白衣が僕の腕を掴もうとする。僕は身を捻る。地上で覚えた動き。地底の人間は身体で抵抗しない。だから抵抗の身体は予測しにくい。予測しにくいものは、短い時間だけ自由に動ける。
警報が鳴る。規定値ではない音。事故の音が施設に広がる。事故が広がるほど、制度は忙しくなる。忙しい制度は盲目になる。盲目になった制度の中で、僕は一歩だけ前へ出る。
監督官が僕の前に立つ。灰色の制服が壁みたいに見える。
「あなたは地底を裏切る」監督官が言う。「死を招く」
死。監督官は死を恐れている。恐れているから、死を避ける計画を押し通す。押し通す正しさが、別の死を呼ぶ。
僕は言った。
「僕は死を招きたくない。だから止める」
監督官の目が細くなる。誤差が消える。個人が薄れる。制度の顔になる。
「止めるとは何だ。あなた一人が止められるものではない」
それは正しい。正しいから恐ろしい。正しい言葉は諦めを生む。諦めは従順を生む。従順は安定を生む。安定は善だ。
僕は言った。
「止めない。遅らせる。空白を残す」
空白。制度の言語に翻訳しにくいもの。名。リーヴ。ゼロ。
監督官が一瞬だけ固まる。固まりは事故の兆候。事故は死だ。監督官はそれを嫌う。
「あなたは何をした」
僕は答える。
「名を守るための欠落を作った。正しい説明が成立しないように」
成立しない。成立しない言語。成立しない計画。成立しない善。止まらない善に、躓きを入れる。
警備が廊下の奥から来る。規定値の足音。規定値の武装。規定値の拘束具。
監督官が言う。
「拘束」
拘束は柔らかい素材で行われる。柔らかい拘束は善の顔をしている。善の顔をした拘束は、痛くない。痛くない拘束は、抵抗の輪郭を奪う。
僕は監督官を見た。
「あなたは善を守っているつもりだ。僕もだ」
監督官の目が揺れる。ほんの一瞬。揺れは個人。個人が戻る瞬間。
「善は最優先だ」監督官が言う。呪文みたいに。
僕は言った。
「最優先が、誰のための最優先かを考えたいだけだ」
その瞬間、背後で小さな金属音がした。排気グリルの奥。保守通路の向こう。外部媒体が、誰かの手に拾われた音。
ゼロだ。名を持たない青年。彼は合図をくれた。今夜、保守通路。規定時刻の二分前。彼は、僕が落とすことを想定していた。想定していたということは、僕より冷静だ。冷静な共犯は、制度の中で生き残る。
生き残るというのは、戦うということでもある。
拘束具が腕に巻き付く。柔らかい。痛くない。痛くないことで、僕は自分が薄まっていくのを感じる。だが薄まる前に、僕は確かに“行為”をした。行為は矯正で消せるかもしれない。だが完全には消せない。消せない残滓が、どこかで火になる。
警備に引かれながら、僕は昇降区画の巨大な扉を見た。扉の向こうは地上だ。地上は匂う。地上は痛む。地上は死ぬ。地上は生きる。
地底は死なない。地底は薄い。地底は滑らかだ。滑らかさは眠りに似ている。
僕は眠りたくない。
監督官が最後に言う。
「あなたは隔離に戻る。追加矯正だ」
追加矯正。滑らかな暴力。
僕は小さく息を吐き、数えないまま言った。
「矯正してもいい。だが空白は、もう外にある」
監督官の表情が、ほんの僅かに崩れる。崩れは恐れだ。恐れは、制度の亀裂の証拠だ。
僕は引かれていく。白い廊下へ。白い天井へ。白い空調の音へ。
その白さの中で、僕は名を握る。
リーヴ。
ゼロ。
そして、第二部の終わりにひとつだけ確信する。
地底は、地上へ手を伸ばす。
だが地底の指先は、もう完全には閉じられない。空白がある。空白は燃える。燃え方は分からない。分からないまま燃える火が、最も人間に近い。




