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満足死  作者: 竜造寺。(原案・編集) & ChatGPT(生成)
第2部
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2部 第7話

 規定時刻の二分前というのは、祈りの形をしている。


 祈りは、外側から見れば非合理だ。だが非合理は、合理が支配する場所でこそ意味を持つ。地底は合理でできている。合理は安全を生む。安全は善を生む。善が積み上がるほど、非合理は居場所を失う。居場所を失った非合理は、盲点へ沈む。盲点は制度の影だ。影の中でだけ、人間は手を動かせる。


 二分前。ほんのわずかな誤差。誤差は事故の前触れだ。地底は誤差を嫌う。嫌うからこそ、誤差は効く。規定値の世界で誤差を作ると、監視は逆に鈍る。監視は規定値を見ているからだ。規定値から外れたものは、最初は雑音として扱われる。雑音として扱われたものが、制度を裂く。


 僕は共同区画の寝台に横たわり、目を閉じた。眠るふり。眠りは善で、善は疑われにくい。疑われにくいふりは、地底では生存技術だ。地上で僕が学んだ生存技術とは逆だ。地上では動かないと死ぬ。地底では動くと死ぬ。死なないことが善であるはずの場所で、死ぬという単語が内側に入り込んでいる。その矛盾が、僕の胸の奥で灰のように舞う。


 規定時刻が近づくと、廊下の空調音が僅かに変わる。交代勤務のタイミング。保守点検のタイミング。地底の時間は、音でできている。音が一定であるほど安心する。安心は警戒を溶かす。溶けた警戒心が、今夜の僕に必要だった。


 僕は静かに起き上がり、歩幅を規定値に合わせた。規定値に合わせるのは従順の仮面だ。仮面は役に立つ。仮面の内側でだけ、僕は息を数えないでいられる。


 廊下の角。監視カメラ。赤い点。赤い点は、地底では血の代替だ。血のない社会は、光で生理を作る。赤い点は警告でもあり、免罪符でもある。見られているという前提があると、人は自分の責任を薄められる。薄まった責任の上で、制度は動く。制度が動くと、誰も止められない。


 保守通路の扉は、目立たない場所にある。目立たないのは意図だ。地底は、危険な扉ほど目立たなくする。目立たない危険は、危険だと気づかれない。気づかれない危険は管理されない。管理されない危険が、制度にとって最大の危険になる。


 手首の内側で薄片が冷たい。冷たさは輪郭だ。輪郭があると、自分が自分だと思い出せる。思い出すという行為は反芻に似る。矯正は反芻を嫌う。だが反芻を失うと、人間は何も持てない。持てない人間は制度に持たれる。制度に持たれる人間は、道具になる。


 僕は薄片を扉の読取部へ当てた。


 小さな音。開錠。規定値の外側へ滑り込む感覚。空気が少しだけ違う。無臭ではあるが、温度が僅かに低い。低い温度は人間の血を思い出させる。血は温かい。温かさは生々しい。生々しさは管理しにくい。管理しにくいものほど、人間に近い。


 暗い通路。照度が落ちると、監視の目は減る。目が減ると、言葉が戻る。戻ってきた言葉が、僕の喉の奥でざらつく。地上の灰が混じっているみたいに。


 通路の先に、白衣の青年がいた。名を持たない青年。彼は壁に背を預け、呼吸を規定値に合わせている。合わせているのに、目だけが揺れている。揺れは恐れだ。恐れは事故の兆候だ。だが事故は、いま必要でもあった。


 青年が言う。


「来た……。予定通り」


 疑問符はない。地底の会話は断定でできている。断定は責任をぼかす。断定は制度の言葉だ。だが今夜の断定は、制度ではなく僕らの側の刃物になる。


 僕は言った。


「薄片は一度だけ……と言った」


 青年が頷く。


「一度だけ。だから、やることはひとつに絞る」


 ひとつに絞る。最適化の言葉だ。最適化は善の仮面を被った刃物。僕らも刃物を使う。刃物を使う僕らは、善なのか悪なのか。地底は善悪を事故率で測る。地上は善悪を点数で測る。測る仕組みの外側に、僕らの行為は置かれる。置かれた瞬間に、僕らは測定されにくくなる。測定されにくいものが、唯一自由に近い。


 青年が通路の奥へ進む。僕も続く。床の金属が僅かに鳴る。音は規定値ではない。規定値ではない音は、警告のように感じる。警告は、身体を起こす。身体が起きると輪郭が戻る。輪郭が戻ると、僕は自分の足で歩いていると思える。


 扉がもうひとつ。古い扉。古いという形容は、地底では珍しい。地底は更新を好む。更新は最適化を伴う。最適化は古さを許さない。だから古い扉は盲点になりやすい。


 青年が言う。


「ここが、解析ログの保守ノード……。解析室の外側にある。委員会の議決が走ったせいで、今夜は同期が多い。多い時ほど監視は遅れる」


 同期。地底の鼓動。同期が多いとき、制度は忙しい。忙しい制度は盲目になる。盲目になった制度に、僕らは触れる。


 青年が扉を開ける。中は狭い。壁面に端末。冷却音。ここだけ、地底の無臭の中にほんの僅かな金属臭がある気がした。気がするだけかもしれない。だが気がするという異常が、いまの僕の武器だ。


 青年が端末を起動する。表示が立ち上がる。ログ。波形。文字列。地上の語彙が、地底の辞書でタグ付けされている。査定。点庫。配給。生存指標。供給偏り。装着選択。終端。


 終端。やはりここにも終端がある。終端は、制度が用意した出口だ。制度が用意した出口は出口ではない。出口は、制度の外にしかない。


 青年が言う。


「あなたの言語記録……。もうモデルに組み込まれ始めてる。全部は止められない」


 止められない。言葉が冷たい。冷たい言葉は現実だ。現実は、僕が地上で見たものに似ている。地上の現実も冷たかった。熱いのは戦火で、冷たいのは制度だった。制度はいつも冷たい。


 僕は言う。


「だから第三が要る」


 青年が僕を見る。


「第三……。あなたが言ってたやつ……」


 僕は頷かない。頷きは合意で、合意は感染だ。感染はここでは危険だ。危険だからこそ必要だが、必要な感染は制御しないと死ぬ。地底の死は肉体ではなく社会的な死だ。隔離。矯正。薄化。消失。


 僕は言った。


「提出の拒否でも、完全な暴露でもない。制度が欲しがる“正しい説明”を、成立させない」


 青年が小さく息を吐く。


「改竄……」


 改竄という単語は、地底では事故だ。事故は悪だ。悪は矯正される。だが事故がなければ制度は崩れない。崩れない制度は止まらない。止まらない制度は人間を置き去りにする。


 僕は言った。


「改竄じゃない。欠落だ。空白を残す」


 空白。空白はモデルの収束を遅らせる。収束が遅れれば計画が遅れる。遅れれば、委員会の熱が冷める可能性がある。冷めれば止まる可能性がある。可能性は小さい。だが小さくても、制度の中で可能性を作れるのは空白だけだ。空白は管理できない。管理できないものは灰に似ている。灰は希望に似る。


 青年が言う。


「空白だけだと、別のデータで埋められる。解析班は埋める。埋めるのが仕事だから」


 仕事。仕事は役割。役割は制度の歯車。歯車は止まらない。止めるには歯を欠けさせるしかない。欠けた歯車は噛み合わない。噛み合わないと音が出る。音が出ると事故として検知される。検知されると矯正される。だから欠けさせ方が必要になる。正しく欠けさせると止まらない。だから、欠けさせ方を間違えなければならない。


 僕は言った。


「埋めるなら、埋めにくい空白を残す」


 青年が眉を僅かに動かす。誤差。誤差は個人の兆候。


「埋めにくい……」


 僕は言った。


「名だ。リーヴ。あの名を、モデルに渡さない」


 名は数字になりにくい。数字になりにくいものは管理しにくい。管理しにくいものは、制度の言語へ翻訳しにくい。翻訳しにくいものを残すと、計画は言葉の外でつまずく。つまずきは転倒になる。転倒は事故だ。事故は死だ。だが死なない世界での事故は、計画の遅延として現れる。遅延は、僕らに時間をくれる。


 青年は静かに頷いた。頷きは合意。合意は感染。感染がここで起きた。起きた以上、戻れない。


 青年が端末に触れる。


「あなたの録音には、名が入っている。音としてじゃない。反応として。あなたの生体ログに、名の反芻が刻まれている。解析班はそこから名を逆算できる可能性がある」


 逆算。地底の得意技。地底は死を避ける代わりに、計算を増やした。計算で世界を捕まえる。捕まえた世界を安全にする。安全は善だ。善の計算が、いま僕らの名を奪おうとしている。


 僕は言った。


「なら、生体ログも持ち出す」


 青年が一瞬固まる。固まった空気。固まると監視が気づく。だがここは盲点だ。盲点の固まりは、まだ制度に届かない。


 青年が言う。


「それは……露骨すぎる。持ち出しは検知される」


 検知。検知されれば矯正。矯正されれば薄まる。薄まれば終わりだ。


 僕は薄片を見た。


 一度だけ。


 一度だけの切符は、派手に使うと燃え尽きる。燃え尽きるのは地上では美学だった。地底では事故だ。事故は悪だ。悪は矯正される。矯正される前に逃げ切る必要がある。逃げ切るには、目立たない派手さが必要だ。矛盾だ。矛盾でしか、制度の中を走れない。


 青年が低い声で言う。


「持ち出すのは……一部だ。全部じゃない。全部は無理。無理なことをすると、正しく壊す。正しく壊すと止まらない。ここでも同じだ」


 僕は息を吸う。吐く。数えない。数えないことで、矯正の滑らかさから外れる。


「一部を持ち出す」僕は言う。「名の周辺。名を逆算できる痕跡だけ抜く。抜いた部分は、無音にしない。無音は目立つ。自然な雑音にする」


 雑音。制度が捨てるもの。捨てられるものは見落とされる。見落とされる雑音の形で、僕らは空白を作る。空白は名を守る。


 青年が頷く。合意。感染。感染がまた広がる。


 彼は端末の操作を始めた。手つきが速い。速さは訓練の成果。制度の訓練が、制度を裏切る形で使われる。裏切りは善悪の外側に落ちる。外側に落ちた行為は、しばらく測定されない。


 画面に、僕の生体ログが出る。反芻のピーク。名の痕跡。そこを切り取る。切り取った断片を、保守用の外部媒体へ落とす。落とすという言い方も受動だが、いまは能動だ。能動であるという感覚が、僕を少しだけ生かす。


 青年が言う。


「外部媒体は一つだけ。持ち出せるのはこれだけ」


 僕は言った。


「それでいい。これが第三の火種になる」


 青年が僅かに笑う。笑いは珍しい。珍しい笑いは、地底では危険だ。危険な笑いは、僕には希望に見える。


 だが希望は長く続かない。


 端末が小さく警告音を鳴らした。規定値ではない音。事故の音。事故は検知を呼ぶ。検知は矯正を呼ぶ。


 青年の顔が硬くなる。


「同期が走った。保守ノードのアクセスログが跳ねた……。戻る」


 戻る。帰還の単語。地底の呪文。だが今夜の戻るは撤退だ。撤退は合理だ。合理は善だ。善の撤退で、僕らは生き残る。


 僕は外部媒体を受け取った。小さく、冷たい。薄片とは違う冷たさ。これは道具の冷たさだ。道具は人間を救うことも殺すこともできる。地上で僕はそれを学んだ。地底でも同じだ。


 青年が言う。


「ここからは、あなた一人で運ぶ。僕が一緒だと、経路が繋がって検知されやすい」


 繋がり。繋がりは感染の経路だ。経路が見えれば潰される。潰される前に分断する。分断は痛い。痛い分断は、輪郭を残す。


 僕は言った。


「名を持たない君に……何て呼べばいい」


 青年は一瞬だけ目を伏せた。伏せた目は、個人の外側を見ている。


「呼ぶ必要はない」青年が言う。「呼ばない方が生き残る」


 生き残る。地底の善。


 僕は頷かずに言った。


「なら、記号でいい。ゼロ……。名がないなら、ゼロだ」


 青年の目が僅かに揺れた。揺れは受容だ。記号でも、名は名だ。名が生まれた瞬間に、感染は深くなる。


 青年は言った。


「……ゼロ。悪くない」


 悪くない。地底の肯定はいつも薄い。薄い肯定が、今はありがたい。


 僕らは別々に動いた。青年は通路の奥へ消え、僕は来た道を戻る。規定時刻の二分前は、すでに過ぎている。過ぎた時間は取り戻せない。取り戻せないという感覚が、地上の時間に似ている。地上の時間は、いつも取り戻せなかった。


 共同区画へ戻る途中、監視カメラの赤い点が僕を追う。追う赤い点は、血の代替。血の代替に見られながら、僕は血のように脈打つものを胸の内側に隠す。


 外部媒体。名の周辺の欠落。空白。雑音。


 これが第三の火種になるかどうかは分からない。分からないという不確かさは、地底では事故だ。だが事故がなければ制度は揺れない。揺れない制度は止まらない。止まらない制度は、人間を置き去りにする。


 共同区画の扉の前で、僕は一度だけ立ち止まった。


 手首の薄片は、まだ冷たい。だが薄片は一度だけ使えると言われた。一度だけの切符を使ったのは、今夜ではない。今夜は準備だ。切符はこれから、もっと目立つ場所で切る必要がある。


 昇降区画。


 地上への介入が始まる場所。地底が地上へ触れる指先。指先は敏感だ。敏感な指先を少しだけずらすと、制度の握りが緩むかもしれない。緩めるために、僕は外部媒体を胸の内側に隠す。


 眠るふりをして寝台へ戻る。規定値の呼吸。規定値の姿勢。規定値の沈黙。


 沈黙の中で、名が燃える。


 リーヴ。


 ゼロ。


 そして僕は、最優先という呪文の外側で、小さく決める。


 次は、切符を切る。

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