2部 第6話
最適化という言葉は、善の仮面を被った刃物だ。
刃物は切る。切って、余計なものを落とす。落とされた余計なものは、たいてい人間だ。人間の揺れ、迷い、躊躇、矛盾。矛盾は本来、人間の証拠なのに、制度は矛盾を事故として扱う。事故は死を呼ぶ。死は悪だ。だから矛盾は削られる。削られた人間は滑らかになる。滑らかになった人間は、生き残る。生き残ることが善である。
委員会室の扉を出た瞬間、廊下の白さが僕の皮膚に貼りついた。
貼りつく白さは、外部を見た者にだけ刺さる。地底で生まれ、地底で育った者は、白さを空気の一部として吸っている。吸っているから白さを見ない。見ないから疑わない。疑わないから従う。従うから安定する。安定は善だ。善の白さが、僕にはいま暴力に見える。
監督官が僕の横を歩く。足音が規定値。歩幅が規定値。呼吸まで規定値に寄せようとしている。寄せようとする力を感じる。矯正の残響が、僕の中で勝手に規則を探している。規則が見つかれば心は落ち着く。落ち着けば反芻が減る。反芻が減れば名が薄まる。名が薄まれば錨が外れる。錨が外れれば、僕は流される。
流された先にあるのは、最適化だ。
廊下の先で、別の白衣が待っていた。解析班ではない。装備が違う。白衣の襟元に小さな標章がある。計画運用。あるいは資源配分。地底は部門の名前で世界を切り分ける。切り分ければ管理できる。管理できれば事故が減る。事故が減れば善が増える。
白衣が言った。
「証人アンドレア。準備段階へ移行しました。あなたの観測記録に基づくモデルの収束が必要です」
収束。数学の言葉。収束は美しい。美しい収束は人間を安心させる。安心は思考を止める。止まった思考は従う。従えば善が続く。
監督官が淡々と付け足す。
「追加矯正は後回しにする。まず最適化班へ」
後回し。地底で後回しは珍しい。地底は規定値で動く。規定値の世界で後回しが生じるとき、それは優先順位が見えた瞬間だ。優先順位が見えた瞬間に、最優先という呪文は少しだけ薄れる。薄れるから怖い。呪文が薄れれば、人間は選ばなければならない。
選ぶという行為は、地底では事故に近い。
扉が開く。最適化班の室内は、解析室よりも“生活”に似ていた。壁面に大きな地図。地上の地形。汚染領域の濃淡。線量分布。移動経路の仮説。人口の推定。そこに重ねられた、矢印と数式と色の塊。
地上が、地底の言語に翻訳されている。
翻訳された地上は、恐ろしく静かだ。地上は本来うるさい。風が鳴る。鉄が軋む。遠くで銃が鳴る。人が叫ぶ。紙が燃える。匂いがある。熱がある。痛みがある。だが翻訳された地上には、匂いも熱も痛みもない。あるのは指標だけだ。指標は人間の感情を切り落とす。切り落とした上で、正しい判断を可能にする。正しい判断は止まらない。
白衣のひとりが、投影板を操作する。文字が出る。
――置換対象:点庫通貨
――置換後:生存指標(仮称)
――供給単位:呼吸/体温/水分/抗線量
――担保:個人の行動履歴
――配分:区域単位の最適解
呼吸。体温。水分。抗線量。
生の構成要素が通貨になろうとしている。
通貨になった生は、配られる。配られる生は、奪われる。奪われる生が生まれれば、そこに市場が生まれる。市場が生まれれば暴力が生まれる。暴力が生まれれば戦争が生まれる。戦争が生まれれば、循環は別の形で閉じる。閉じた循環は止まらない。
僕は言った。
「それは……生を点数化することと同じだ」
白衣のひとりが、表情を動かさずに答えた。
「同じではありません。死ではない。生存です」
死ではない。生存だ。言葉の置換。置換の瞬間に倫理がすり替わる。すり替わった倫理は、気づかれない。気づかれない倫理は止められない。
監督官が僕を見る。
「あなたは地上の点制度を“異常”と捉えた。ならば、生存指標は正常だ」
正常。地底が好む単語。正常は制度の同義語だ。制度が正常である限り、制度は自分を正当化できる。正当化できる制度は強い。強い制度は止まらない。
白衣が続ける。
「地上の点制度は、欠乏を通貨化している。欠乏は暴力を生む。欠乏を減らすために外部入力を行う。外部入力の配分に、指標が必要だ」
必要。必要という単語は、議論を終わらせる。必要が提示された瞬間、反対は“非合理”になる。非合理は事故だ。事故は死だ。だから非合理は矯正される。
僕の中で、リーヴの言葉が燃える。
正しく説明するな。正しく壊すと止まらない。
彼は、正しさを恐れていた。地底の正しさも、地上の正しさも。正しさは止まらない。止まらない正しさは、倫理を機械にする。
投影板が切り替わる。
――実施手順(案)
地上主要拠点へ物資投下(呼吸・水・抗線量)
生存指標の配布と記録端末の装着
配給の地底主導化
点庫の無効化(市場遮断)
戦線需要の減衰
地上暴力指数の低下
終端:地上自治への移行
終端。終端という言葉は、綺麗だ。綺麗な終端は、実在しないことが多い。制度は終端を嫌う。終端は制度の死だ。制度は自分の死を好まない。だから終端はたいてい、先延ばしにされる。先延ばしにされた終端は永遠になる。永遠になった計画は支配になる。
白衣が僕へ向かって言う。
「証人。地上の人間は、端末を装着することに抵抗しますか」
抵抗。地上の抵抗。地上の抵抗は熱い。地底の抵抗は言葉だ。地上の抵抗は身体だ。だから地上の抵抗は、数字では読めない。
僕は答えた。
「抵抗する。端末は首輪に見える」
首輪。地上で犬は比喩だった。比喩は暴力を正当化する。正当化された暴力は止まらない。地底が首輪を付けるなら、それは救済の首輪だ。救済の首輪は外しにくい。
白衣が頷く。
「ならば装着を“選択”に見せる必要がある。選択を成立させるために、段階的に供給を偏らせる」
段階的に供給を偏らせる。
それは首輪ではない。飢餓の設計だ。飢餓を設計すれば、人は従う。従えば生き残る。生き残ることが善である。善の設計が、飢餓を使う。地底は飢餓から逃げた。逃げた地底が、飢餓を道具にする。
僕は言った。
「それは……地上の点制度と同じだ。欠乏を作って、従わせる」
白衣は淡々と返す。
「欠乏は作らない。現に欠乏している。配分の最適解を選ぶだけです」
選ぶだけ。責任の分散装置の言葉。選ぶだけと言えば罪悪感が薄まる。罪悪感が薄まれば実行しやすい。実行しやすい正しさは止まらない。
監督官が僕の肩に手を置いた。手は冷たい。冷たさは清潔の証拠。清潔は善。善の手が、僕を固定する。
「あなたの協力が最優先だ」監督官が言う。「地上の反応を推定し、抵抗の形を提供しろ。計画に織り込む」
抵抗の形を提供しろ。抵抗をモデル化しろ。抵抗を織り込めば、抵抗は事故ではなく仕様になる。仕様になった抵抗は、抵抗ではなくなる。抵抗が抵抗でなくなると、地上は地底に似る。似た世界は、同じ装置で動く。装置で動く世界は、人間がいなくても動く。
僕は思った。
ここが、正しく壊す始まりだ。
正しく壊すと止まらない。止まらないのは壊し方ではなく、壊したあとに立つ新しい制度だ。新しい制度は、古い制度より滑らかだ。滑らかになった支配は、火で燃やせない。火で燃やせない支配は、灰にできない。灰にできないものは管理され続ける。
部屋の隅で、白衣の青年が僕を見ていた。名を持たない青年。彼は、ここでは補助に過ぎない顔をしている。補助は見落とされやすい。見落とされやすいものほど、盲点になる。
青年が、机の上の資料を運ぶふりをして近づく。監督官の視線は投影板に向いている。委員会の承認が彼女を忙しくしている。忙しさは盲点を増やす。盲点が増えれば、制度は弱くなる。
青年が、僕の手首の拘束具の内側に、指先で軽く触れた。
触れた場所に、薄片の冷たさがある。
青年が、口を動かさずに囁いた。
「……今夜。保守通路。規定時刻の二分前」
今夜。規定時刻。二分前。地底の規定値を逆手に取った合図だ。規定値は予測を生む。予測は盲点を作る。盲点は事故を生む。事故は死を生む。地底が最も嫌うものを、僕らは利用しようとしている。
監督官が振り返る。
「証人。次の段階へ」
僕は頷かない。頷けば合意になる。合意は制度の燃料になる。燃料を与えずに動くのが、いまの僕の唯一の抵抗だ。
監督官に促され、別室へ移動する。そこは“モデル室”と呼ばれた。壁一面に、地上の拠点の名前と数値。点制度の代替となる“生存指標”の試算。供給偏りの最適解。抵抗発生率。暴力指数。
数字が揃っていく。揃うほど世界は確定される。確定された世界は動かしにくい。動かしにくい世界では、個人は選べない。選べない個人は楽だ。楽な個人は従う。従えば善が続く。
僕は、数字の列の中に、ひとつの空白を探した。
空白は、制度がまだ掴めていない場所だ。掴めていない場所は、火になれる。火は燃える。燃えるものは制御できない。制御できないものは、希望に似る。
空白は、名だった。リーヴ。地上の人間の名。制度化される前の人間の輪郭。
名は数字になりにくい。数字になりにくいものは管理しにくい。管理しにくいものは危険だ。危険は矯正される。矯正される前に、僕は危険を抱える。
監督官が言う。
「あなたの言語記録は、計画の基礎だ。あなたは地底の善を裏切らない」
裏切らない。裏切りという単語が出る時点で、彼女は恐れている。恐れは事故の兆候だ。事故は死だ。だから彼女は僕を縛る。縛れば事故は減る。事故が減れば善が増える。
僕は言った。
「善は裏切らない。止まらない善を止めたいだけだ」
監督官の目が冷える。冷えた目は、矯正の手順を思い出している目だ。
「その発話は危険だ」
危険。便利な単語。危険と言えば何でも矯正できる。矯正できる世界は安定する。安定は善だ。善の名の下で、僕の言葉はまた削られるだろう。
だが今夜、二分前、保守通路。
薄片は一度だけ使える。
一度だけという制約が、命に似た重さを持つ。地底の命は長いのに、選択の命は短い。短い命は燃える。燃えるものは制御できない。制御できないものは、人間に戻る。
僕は呼吸を数えない。
数えないまま、規定時刻を待つ。
最適化が完成する前に、僕は矢印の結び目へ手を伸ばさなければならない。結び目をほどくのではない。結び目そのものを、燃えない形で無効化する。第三の道を、言葉の外で作る。
そのために今夜、地底の盲点へ潜る。




