2部 第5話
委員会という仕組みは、責任の分散装置だ。
責任が分散すれば、罪悪感が薄まる。罪悪感が薄まれば、人は正しいことをしやすくなる。正しいことをしやすい社会は、安定する。安定は善だ。善の名の下で、誰もが少しずつ加担できるようになる。加担できるようになると、誰も止められなくなる。
解析班へ向かう廊下の白さは、前よりも硬く見えた。
白さは光の問題ではない。僕の目が変わったのだ。地上を見た目は、地底の白さに耐えられなくなる。耐えられなくなるというのは、目が弱くなったのではない。むしろ逆だ。余計なものを見てしまう。見てしまうというのは、制度の輪郭が見えるということだ。輪郭が見える制度は、もはや自然ではない。自然ではないものは疑える。疑えるものは危険だ。危険は矯正される。矯正される前に、僕は歩く。
解析班の入口で拘束具が外される。外されるという言い方も受動だ。地底で受動は自然だ。自然であることが恐ろしい。
扉が開く。灰白の室内。壁面の表示板。単語の整列。循環図。矢印。閉じた輪。
そこに、昨日より多くの人間がいた。白衣。灰色の制服。腕に端末。顔の表情は薄い。薄い表情は、会議のために作られている。会議では個人は邪魔だ。個人は事故を呼ぶ。事故は死を呼ぶ。だから個人は薄められる。薄められた人間たちが集まると、委員会になる。
監督官が僕を導く。
「あなたの言語記録は、二次解析に入った」
二次解析。言葉が工程になる。工程になった言葉は、もはや誰のものでもない。誰のものでもない言葉は、誰にも責任がない。責任がない言葉は、制度のために使いやすい。
白衣の青年がいる。名を持たない青年。僕の手首へ薄片を滑り込ませた青年。彼は表情を動かさない。だが目だけが、ほんの僅かに揺れている。揺れは合図だ。合図は制度の盲点でしか生きられない。
監督官が言った。
「これから委員会へ出席する。あなたの観測記録は、救済計画の最終判断に影響する」
救済計画。言葉の響きは柔らかい。柔らかい言葉は暴力を隠す。隠された暴力は抵抗されにくい。抵抗されない暴力は、止まらない。
僕は言う。
「僕は委員ではない」
監督官が淡々と返す。
「あなたは証人だ。証人は委員ではないが、委員会の構造に組み込まれる」
組み込まれる。ここでも受動。地底は人間を組み込む。組み込まれた人間は、抜けにくい。抜けにくい構造が安定だ。安定は善だ。
僕らは別の廊下へ進む。空調の音が変わる。照度が少し落ちる。落ちた照度は、ここが中枢に近いことを示している。中枢は目立つ必要がない。目立たない中枢ほど強い。
重い扉。扉の向こうで、声がしている。声は低い。低い声は落ち着きに聞こえるが、地底では低い声は“権限の声”でもある。権限は感情を排除する。感情を排除した声は、正しい。
扉が開く。
委員会室は広い。円形。中央に投影装置。周囲に席。席に座る人間たち。顔は薄い。薄い顔の集団は、ひとつの顔になる。ひとつの顔は、制度そのものだ。
投影装置に映し出される文字。
――地上介入計画(仮)
――目的:戦争循環の停止
――手段:資源配分アルゴリズムの置換
――主指標:死の発生率低下/点制度の無効化
――副指標:地上人口の安定化/暴力指数の低下
――留意:地底の価値体系への影響最小化
影響最小化。危険な言葉だ。最小化というのは、影響があることを前提にしている。前提にした影響は、必ず起きる。起きる影響を最小化するという発想は、起きることを容認している。容認は加担だ。加担は責任を生む。責任は分散される。分散された責任は消える。消えた責任の上で、救済は実行される。
議長らしき人物が言う。
「証人、アンドレア」
名を呼ばれる。呼ばれるというのは、個人としてここに引きずり出されるということだ。地底は普段、個人を薄める。だが必要なときだけ個人を作り、責任を押し付ける。押し付けるのは矛盾だ。矛盾は制度を生かす。制度は矛盾を食べて大きくなる。
議長が言う。
「あなたが観測した制度を、最短の言葉で説明せよ」
最短。短い説明は危険だ。短い説明は本質を切り出す。切り出された本質は、武器になる。武器になった本質は政策になる。政策は救済になる。救済は支配になる。
僕は息を吸い、吐いた。呼吸を数えない。数えないことで、矯正の滑らかさに飲まれないようにする。
僕は言う。
「死が通貨になっていた。通貨が未来を縛っていた。縛られた未来が、次の死を必要数として生む循環だった」
委員の数名が頷く。頷きは合意ではない。確認だ。確認は次の段階へ進む許可だ。許可が出ると計画は動く。動いた計画は止まらない。
議長が続ける。
「循環の要点は何だ」
要点。要点は矢印の結び目だ。結び目を掴めば循環はほどける。ほどけた循環は止まる。止まれば戦争が止まる。止まれば死が減る。死が減れば善が増える。善を増やすために、要点は求められる。
僕は言う。
「確定だ。帳簿で点が確定され、貸借で未来が確定され、戦線計画で死が確定される」
議長が頷く。
「確定装置を破壊すれば良い」
その言葉が、紙の炎の匂いを呼び起こす。燃える紙。灰。灰は管理できない。管理できないものが希望に似る。希望は危険だ。危険は矯正される。
委員のひとりが言う。声が少し高い。高い声は焦りに近い。
「焼却は非効率だ。地上は物理的破壊に慣れている。確定装置を壊しても代替が生まれる」
代替。代替が生まれるという視点は、地上の制度が“生き物”であることを示している。生き物の制度は、殴るほど強くなることがある。殴られ慣れた制度は硬くなる。硬くなった制度は、さらに暴力を必要とする。暴力が増えれば死が増える。死が増えれば、目的と逆になる。
別の委員が言う。低い声。
「だから置換だ。点を無効化し、配給を別の指標に変える。死を通貨にできなくすれば、戦線の需要も落ちる」
落ちる。需要が落ちる。需要が落ちれば供給が減る。供給が減れば死が減る。合理的。合理的な言葉は、恐ろしい。合理的であるほど暴力の手触りが消える。手触りが消えた暴力は、実行されやすい。
監督官が付け足す。
「地底の資源と技術を外部入力として投入する。地上の飢餓を減らし、点制度の必要性を希薄化させる。希薄化は破壊ではない。滑らかな移行だ」
滑らかな移行。滑らかさは矯正と同じ匂いを持つ。滑らかなものは抵抗を生まない。抵抗がない移行は、同意が不要だ。不要な同意の上で支配は完成する。
僕の中に、リーヴの言葉が浮かぶ。
正しく説明するな。正しく壊すと止まらない。
委員会は正しさを欲しがっている。正しさを欲しがるという事実が、計画の危険性だ。危険性を指摘すれば、僕は矯正される。矯正されれば言葉は薄まる。薄まれば何も止められない。
議長が言う。
「証人。あなたは、地底が介入することで地上がどう変わると推定する」
推定。推定という礼儀は、実質的な断定を許す。推定を提出させれば、責任は証人にも分散できる。分散された責任は消える。消えた責任の上で救済は実行される。
僕は、言葉を選ぶ。言葉を選ぶという行為が、ここでは最も危険だ。危険だからこそ価値がある。
僕は言う。
「地上の制度は、死を必要数にしている。必要数は、需要だ。需要がある限り、供給は形を変える。点を無効化しても、別の通貨が生まれる可能性がある。通貨が生まれれば、また未来が縛られる」
委員の数名がざわめく。ざわめきは事故の兆候だ。事故は死だ。地底はざわめきを嫌う。嫌うからこそ、議長が声を落とす。
「別の通貨……とは」
僕は言う。
「生存」
その二文字で空気が一瞬止まる。止まった空気は、地底では珍しい。珍しいというのは事故だ。事故は矯正される。矯正される前に、僕は続ける。
「地上の死が通貨なら、地底の生が通貨になる。生が配点され、配分され、担保になる。担保になれば未来を縛る。縛られた未来は、別の形の戦争を生む」
言った。言ってしまった。言葉は武器になる。武器になった言葉は政策になる。政策は救済になる。救済は支配になる。
だが言わなければ、もっと直線的に支配が進む。言ったことで支配が止まるとは限らない。むしろ支配が洗練される危険もある。洗練された支配は止めにくい。
議長が静かに言う。
「あなたは、地底の善を疑うのか」
疑う。疑うという単語が出た時点で、僕は危険人物として確定される。確定は帳簿がする。帳簿は燃えた。だがここには燃えない帳簿がある。委員会の議事録。録音。ログ。僕の生体反応。
僕は言う。
「疑っているのは善じゃない。善の固定だ。固定された善は止まらない。止まらない善は、人間を置き去りにする」
議長が目を細める。誤差。誤差は個人の兆候だ。だが議長の個人は制度の個人だ。制度が個人の顔を借りて喋っている。
「置き去りにされた人間は死ぬ」議長が言う。「死なないことが善だ。あなたの論は、死を容認する」
容認。責任の押し付け。死を容認しているのはどちらか。地上は死を必要数にしている。地底は死を避けるために個人を薄める。薄めた個人は、生きているのか。生きているというのは何か。定義がずれる。定義がずれると、会話は成立しない。成立しない会話の上で、計画だけが進む。
白衣の青年が、僕の視界の端で、ほんの僅かに首を振った。合図。言いすぎるな。ここでは言葉がすべて捕捉される。捕捉された言葉は、正しく利用される。正しく利用されると止まらない。
監督官が議長に言う。
「証人の発話は記録し、モデルに反映します。計画の留意事項として扱うべきです」
留意事項。危険を“留意”に落とす。留意に落とされた危険は、実質的に無視される。無視された危険は、事故になって現れる。事故は死を生む。死は悪だ。だが事故は起きる。事故が起きても責任は分散される。分散された責任は消える。消えた責任の上で善は続く。
議長が言う。
「議決に入る」
議決。決まる。決まるというのは、世界がまたひとつ確定されるということだ。確定が積み重なると、個人が動ける余地がなくなる。余地がなくなると、人間は制度になる。制度になった人間は死なないが、生きてもいない。
委員たちが端末を操作する。光が点滅する。点滅は投票だ。投票は民主の顔をしている。だがここに民主はない。ここにあるのは責任の分散だ。分散の美学だ。
投影装置に結果が表示される。
――地上介入計画(仮) 承認
――準備段階へ移行
――証人アンドレアの追加協力 要請
要請。柔らかい命令。柔らかい命令は拒否を許さない。拒否すれば矯正が来る。矯正が来れば薄まる。薄まれば終わる。
議長が言う。
「証人。あなたの協力が最優先だ」
最優先。呪文。呪文がここでも使われる。呪文は場所を選ばない。呪文が通用する限り、地底は地底だ。
僕は頷かない。頷けば合意になる。合意は感染になる。感染はここでは制度の燃料になる。
僕は言った。
「僕は最優先を疑っている」
言った。委員会室の空気がまた一瞬止まる。止まった空気の中で、監督官が僕を見る。目が冷たい。冷たい目は恐れだ。恐れは事故の兆候だ。事故は死だ。監督官は死を嫌う。だからこそ、僕を矯正する。
監督官が淡々と告げる。
「追加矯正の必要性がある」
追加矯正。滑らかな暴力。僕の中の灰が、舞い上がる。舞い上がった灰は管理できない。管理できないものは希望に似る。希望は危険だ。危険は矯正される。
白衣の青年が、僕のすぐ後ろで小さく息を吐いた。吐息は合図だ。いまが一度だけの機会。薄片を使うなら、ここだ。
委員会の扉が開く。外の廊下の白さが覗く。白さは僕を薄める。薄められる前に、僕は手首の内側の冷たさを確かめる。薄片がある。輪郭がある。
僕は思う。
提出だけが道じゃない。
道が複数あるなら、ここで一本を折らなければならない。折るのは暴力だ。だが暴力を避けた結果が、滑らかな支配になるなら、どちらが人間にとって残酷なのか分からない。
扉の向こうで、制度が僕を待っている。
僕は一歩踏み出した。




