2部 第3話
矯正という言葉は、骨の位置を思い出させる。
折れた骨を正しい位置へ戻す。戻して固定する。固定すれば痛みは減る。痛みが減れば人は安心する。安心すれば人は従う。従えば制度は続く。制度が続けば安全が続く。安全が続けば死なない。死なないことが善である。善の名の下で矯正は行われる。
僕の隔離室の扉が開いたのは、決まった時刻だった。
地底の時刻は規定値で、規定値は揺れない。揺れない時刻は人間の不安を削る。不安が削れれば事故が減る。事故が減れば善が増える。善のための規定値。地底はそれを信仰に近い熱量で運用している。
監督官と、白衣の青年が入ってくる。青年は昨日と同じ無表情を作っている。無表情は安全だ。表情は個人を露呈する。個人は危険だ。危険は矯正される。矯正される個人は薄まる。
監督官が言う。
「治療室へ」
治療。矯正を治療と言い換える。言い換えは言語の手術だ。手術は痛いはずなのに、地底では痛みが発生する前に麻酔される。麻酔は心理にも効く。心理に効いた麻酔は、抵抗の芽を摘む。摘まれた芽は根を伸ばせない。
僕は立ち上がる。拘束具が付けられる。柔らかい素材。痛みがない。痛みがない拘束は拘束ではない、と錯覚させる。錯覚させた拘束は、抵抗されない。
廊下を歩く。壁は白い。空調は一定。照度は一定。一定は、人間を一定にする。一定になった人間は揺れない。揺れない人間は疑わない。疑わない人間は従う。従えば善が続く。
治療室の扉は、隔離室の扉より厚い。厚い扉は、内側で何かが起きる証拠だ。証拠は管理される。管理された証拠は残らない。残らないものはなかったことになる。地底は、なかったことを増やすことで安全を作る。
室内は、白いベッドが中央に置かれている。ベッドの周囲に装置。装置は医療の顔をしている。医療の顔をした装置は、統治の道具でもある。
監督官が言う。
「横になれ」
命令は短い。短い命令は議論を許さない。議論がないと個人は生まれにくい。個人が生まれなければ事故が減る。事故が減れば善が増える。短い命令は、善の効率だ。
僕は横になる。背中が冷たい。冷たさは清潔の証拠だ。清潔は善だ。善は冷たいことがある。地上の火は熱かった。熱は痛いが、生々しかった。冷たい善は痛くないが、輪郭を奪う。
白衣の青年が、装置の端末を操作する。指の動きが滑らかだ。滑らかな動きは訓練の成果だ。訓練は制度の肉体化だ。肉体化された制度は、個人の反射より速い。
監督官が僕の頭上に立ち、淡々と言う。
「あなたの反芻は強い。地上の経験が過剰に定着している。過剰な定着は危険だ」
危険。地底の便利な単語。危険という単語は、何でも矯正の対象にできる。矯正できる領域が広がれば広がるほど、地底は安全になる。安全になるほど、人間は薄くなる。
「治療の目的は、記憶の削除ではない」監督官は続ける。「反芻を減らし、過剰な情動を抑制し、客観性を回復させる」
客観性。地底が好む神話。客観性は中立ではない。客観性は制度が欲しい結論へ到達するための道具だ。客観的であるほど、制度に従いやすい。制度に従いやすい客観性は、個人の倫理を溶かす。
白衣の青年が、僕の腕にパッドを貼る。皮膚がひんやりする。
「軽い刺激です。痛みはありません」
痛みがない。痛みがないことが善だと、地底は信じている。だが痛みは輪郭でもある。輪郭がなければ、人間はどこからどこまでが自分か分からなくなる。分からなくなれば、制度がそこに入り込む。入り込めば支配が容易になる。
装置が低い音を出す。規則的。規則的な音は心拍を誘導する。誘導された心拍は落ち着く。落ち着いた心拍は従う。従う心拍は善を維持する。
監督官が言う。
「地上で、あなたは名を得た」
名。リーヴ。名は数字になりにくい。数字になりにくいものは管理しにくい。管理しにくいものは危険だ。危険は矯正される。
僕は言った。
「彼は死んだ」
死んだ、とは言わない方が良い。地底では死は事故だ。事故は統計になる。統計になった死は感情を消す。感情を消した死は扱いやすい。扱いやすい死は、地上の死に近づく。地上では死は点数だった。点数は感情を消す。地上と地底が、同じ機構へ収束している。
監督官が言う。
「死は確認されていない」
確認。確定の別名。確定は帳簿がする。帳簿は燃えた。だから確定はできない。確定できないなら希望がある。希望は危険だ。危険は矯正される。
僕は言った。
「確認されなくても、彼の肩は跳ねた。弾が当たった音がした。血が出た。彼は僕を逃がした」
監督官が僅かに首を傾げる。
「感情の混入が見られる」
混入。純度を守る言語。地底は純度を好む。純度の高い思考は予測しやすい。予測しやすい思考は統治しやすい。統治しやすい人間は事故を起こしにくい。事故が起きなければ死なない。死なないことが善である。
装置の音が少し変わる。周波数が上がる。心臓がそれに引きずられる。引きずられる感覚がある。感覚があるという事実は、僕がまだ自分を持っている証拠だ。証拠は矯正される。
監督官が続ける。
「あなたは地上を“正しく説明するな”と言われた」
僕は息を吸う。彼女は録音を聞いたのだろう。解析班はすでに“言語”を掴んでいる。掴んだ言語は政策になる。政策は救済になる。救済は支配になる。
監督官が言う。
「なぜ正しく説明してはいけない」
僕は答える。
「正しく壊すと止まらない。正しい救済も止まらない」
監督官は淡々と首を振る。
「止まらない救済は、救済ではなく安定だ。安定は善だ」
安定。地底の最終目標。安定は死なないための形だ。だが安定は、変化を殺す。変化を殺すと個人が死ぬ。個人が死んだ社会は、生きているのか。生きているというのは何だ。地上で僕は死の制度を見た。地底で僕は生の制度を見ている。どちらも制度だ。制度は生き物ではない。
白衣の青年が、監督官に小さく言う。
「反芻が一時的に増えています。名に反応しています」
名に反応する。リーヴ。名は僕の中で小さな火だ。地底は火を恐れる。火は燃える。燃えるものは制御できない。制御できないものは事故だ。事故は死だ。だから火は消される。
監督官が言う。
「名は、あなたの中の異常を固定する錨だ」
錨。地底に錨はない。海がないからだ。だが地上には海がある。海は境界が曖昧だ。曖昧さは危険だ。危険だから人間は錨を作る。錨は自分を止めるための道具だ。止めなければ流される。流されれば死ぬ。地上の死を避けるために、地上の人間は錨を打つ。僕は今、名という錨を打ってしまっている。
監督官が続ける。
「錨を外す。外しても記憶は残る。だが反芻は減る。あなたは楽になる」
楽になる。楽になることが善だという思想。楽は痛みを消す。痛みが消えると輪郭が消える。輪郭が消えると個人が消える。個人が消えると制度が入る。制度が入ると安定する。安定が善である。
僕は言った。
「楽になりたくない」
言ってしまった。地底で最も危険な言葉だ。治療を拒否する。矯正を拒否する。安全を拒否する。善を拒否する。
監督官の目が細くなる。誤差が増える。誤差は個人の兆候だが、彼女の誤差は怒りではない。恐れだ。恐れは事故の予兆だ。事故は死だ。監督官は死を嫌う。
監督官が言う。
「あなたは疲弊している。判断能力が低下している。治療はあなたのためだ」
あなたのため。地底の最も便利な免罪符。あなたのためと言えば、何でもできる。何でもできる権力は、善の顔をして暴力を振るう。暴力を振るう善は、止まらない。
装置の刺激が強まる。僕の思考が滑らかになる。滑らかになるというのは、角が取れるということだ。角が取れると引っかからない。引っかからない思考は疑わない。疑わない思考は従う。従えば楽になる。楽になれば生き残る。生き残ることが善である。
僕は抵抗しようとして、抵抗の仕方が分からないことに気づく。
地上では抵抗は身体の動きだった。走る。隠れる。奪う。燃やす。地上の抵抗は熱と汗と痛みで構成される。地底の抵抗は、言葉の中にしかない。言葉を奪われれば、抵抗は死ぬ。抵抗が死ぬのが、矯正の目的だ。
白衣の青年が僕の視界の端で、ほんの僅かに指を動かした。監督官には見えない角度。角は盲点だ。盲点は制度の弱点だ。
彼は、僕の手首の拘束具の内側へ、小さな薄片を滑り込ませた。薄片は冷たい。冷たさが皮膚に刺さる。刺さる感覚が輪郭を戻す。輪郭が戻ると、僕は自分の手が自分のものだと思い出す。
青年が、無表情のまま言う。
「治療を継続します。あと三分で反芻は有意に低下します」
有意。統計の言葉。統計は個人を消す。個人が消えると制度が勝つ。
監督官が頷く。
「よい。完了後、再面談。提出に向けて調整する」
調整。僕を整える。僕の言語を整える。整えた言語は政策になる。政策は救済になる。救済は支配になる。
僕の指が薄片に触れる。薄片は、端末の権限カードみたいなものだ。地底の施設には、非常用の手動制御が残っている。残っているのは、制度が完全ではない証拠だ。証拠がある限り、事故は起こり得る。事故は死を呼ぶ。死は悪だ。だから証拠は隠される。隠されても、残る。
薄片の縁に刻まれた微細な印。番号。数字。数字になった薄片。数字は管理できる。管理できるものを使って、僕は管理から逃げようとしている。矛盾だ。だが矛盾でしか逃げられない。制度は制度でしか壊せない。
装置の音がさらに滑らかになる。僕の瞼が重くなる。重くなるのは楽になる兆候だ。楽は善だ。善は眠りに似ている。眠りは意識を奪う。奪われた意識は抵抗できない。
僕は薄片を握りしめた。握りしめることで、痛みのない拘束具の中に小さな圧が生まれる。圧が輪郭になる。輪郭が僕を起こす。
監督官の声が遠くなる。
「……あなたは守られている。地底はあなたを……」
守る。守るという単語が、僕の耳に届く前に、別の単語が重なる。
リーヴ。
名は、錨だ。錨は僕を止める。止めることで、僕は流されない。流されなければ、制度の中で溺れずに済むかもしれない。溺れずに済むかもしれないという希望が、矯正の滑らかさの中で、まだ消えていない。
装置の音が止まる。
監督官が言う。
「完了。反芻は低下した。客観性が回復するはずだ」
はず。推定。礼儀としての不確かさ。だが不確かさは、地底では例外だ。例外は矯正される。矯正されても例外が残るとき、制度に亀裂が入る。
白衣の青年が僕の目を見る。ほんの僅かに揺れる。揺れは合図だ。
彼は言った。
「次の面談で、あなたは“提出”を選ばされます。薄片を使えるのは一度だけです」
一度だけ。地上の命は一度だけだった。地底の命は長い。長い命の中で“一度だけ”が現れるとき、それは死に似た重さを持つ。
僕は息を吸い、吐いた。呼吸を数えない。
数えないまま、次の面談へ連れていかれる自分を感じる。感じるという事実が、まだ僕が薄まっていない証拠だ。証拠はいつか消される。消される前に、使う。
薄片の冷たさが、僕の手首の内側で小さく光っている気がした。




