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満足死  作者: 竜造寺。(原案・編集) & ChatGPT(生成)
第一部
1/7

第1話

 2138年8月11日、06:14。地底第四層。


 この世界に朝はない。あるのは切り替えだけだ。照明のスペクトルが変わり、換気の周期が変わり、起床を促す微弱なホルモン刺激が投与され、僕の“睡眠”が“活動”へ変換される。地底社会の生理は、もはや個人のものではない。個人の生理が共同体の計画に従属している、と言ったほうが正確だ。


 死なないことが善である。


 第四層の公共壁面には、その文言が同一フォントで繰り返し刻印されている。文字は情報である以前に環境だ。環境は人間を矯正する。空気が肺を矯正するように、壁の言葉が思考を矯正する。矯正された思考は安定を生む。安定は事故を抑える。事故が減れば死が減る。死が減れば善が増える。善が増えれば共同体は正しい。正しさが循環し始めると、そこから先は宗教と区別がつかなくなる。


 僕は呼吸の回数を数える癖がある。恐怖症ではない。恐怖は管理される。地底で恐怖は“事故の起点”として扱われ、起点は封じられる。だから僕が数えているのは恐怖ではなく、継続だ。続いてしまうこと。終わらないこと。終わりがないことは祝福だと教え込まれたはずなのに、僕の身体のどこかは、終わりの不在に落ち着かなさを感じている。


 僕は第四世代だ。核戦争後、地底へ避難した人々の子孫の、そのさらに子孫。僕の世代は「死」を実物として見たことがない。死は医療区画の報告書に現れる“異常終了”であり、統計上の“損失”であり、教育用フィードに収録された“過去の災厄”だ。死は現実ではなく概念だ。概念は触れられない。触れられないものは恐れにくい。恐れにくいものは、欲望に変わりやすい。


 今日は成人儀礼がある。


 成人儀礼、と言っても、誇張された儀式性は削ぎ落とされている。地底は感情の山を嫌う。山は滑落を生む。滑落は事故だ。事故は死だ。だから成人儀礼は、極力平坦な手順として実装されている。端末、同意、接続、負荷、評価、終了。感動の余地は設計段階で削除される。


 医療区画の廊下は灰色がかった白だ。白は清潔の象徴だが、同時に汚れの可視化でもある。地底は可視化を好む。見えれば管理できると信じているからだ。可視化の信仰は、この社会の中枢を動かしている。心拍は可視化され、血糖は可視化され、睡眠の深度は可視化され、恐怖は指数化される。指数にできないものは危険だ。指数にできないものは隔離される。指数にできないものは、やがて“存在しないこと”にされる。


「アンドレア・ノルデン。識別番号F4-217」


 合成音声が僕を呼ぶ。名前は個人の象徴で、番号は共同体の所有権だ。どちらか片方だけでは社会は回らない。個人だけでは散逸し、共同体だけでは硬直する。だから地底は、個人と共同体の両方を持たせたまま、個人の側をできるだけ小さくする。


 医療台に横たわる。後頭部に冷たいパッド。皮膚より先に神経がそれを知る。接続端子が首筋に触れ、僕の身体が僕のものではなくなる感覚が始まる。地底で身体は、最初から完全に個人のものではない。健康は共同体の資産で、病は共同体の損失だ。だから僕の体温も、僕の寿命も、僕の権利というより“維持すべき値”として扱われる。


「負荷が閾値を超えた場合、体験は中断されます。あなたの安全は最優先です」


 最優先。安全は最優先。生存は最優先。だが最優先が積み上がると、人生から優先順位が消える。優先順位が消えると、選択が消える。選択が消えると、自由が消える。自由が消えても、死ななければ社会は成立する。地底はその証明を続けている。


 視界が落ちる。次に開いたとき、空があった。


 空は青くない。灰と熱と微粒子の色だ。輪郭を失った太陽が、濁った光を落としている。風が吹く。規定値ではない風。僕の皮膚は、管理されない風にうまく反応できず、寒さと熱さを同時に感じる。焦げた匂いがする。匂いは記憶の呼び水だが、僕の中に呼び戻すべき記憶はない。ただ身体が、これを“危険”として処理する。喉が締まり、涙が滲む。涙は防御だ。防御は生存の本能だ。本能は思想より古い。


 遠くで、連続する破裂音。金属が悲鳴を上げる音。人の声が混じる。言語になる前の声。言語になる前の声は、社会が介入する前の声だ。社会が介入する前の声は、正しいとか間違っているとか以前に、生存の単位として存在している。


 これが地上。2013年の核戦争が生んだ地表世界の現在形。


 核戦争という単語には二つの機能がある。ひとつは史実としての機能。もうひとつは、地底社会における統治理由としての機能だ。核戦争があったから地底へ逃げた。核戦争があったから地上は危険だ。核戦争があったから死を避けねばならない。核戦争があったから管理が必要だ。核戦争があったから、僕らは“正しい”。原因が永遠に正当化を供給し続ける。地底社会は、その循環で維持されている。


 僕の胸が痛む。痛みは警告だ。地底では痛みは遮断される。遮断されるのは“無駄な情報”だからだ。だが痛みは情報である以前に輪郭だ。輪郭があるから触れられる。触れられるから、存在は確かになる。


 その瞬間、僕は奇妙な感情を抱いた。恐怖ではない。嫌悪でもない。羨望に近い。


 倒れた人間の身体には終わりがある。終わりがあるという事実が、その人間をひどく“確かなもの”に見せた。地底で僕らは不老を獲得した。老いないことは、死なないことに近い。だが死なないことは、終わらないことでもある。終わらないものは、意味を薄める。薄めて、薄めて、透明にする。透明になれば安全だ。だが透明は、触れられない。


 視界が揺れる。負荷が閾値へ近づく。中断。世界が引き剥がされ、灰白の医療区画に戻る。


 僕は汗をかいていた。地底では汗をかく機会が少ない。汗は、環境が僕を上回った証拠だ。僕は気分が悪いのに、笑いそうになった。管理されない世界に、身体が“負ける”という事実が、なぜか嬉しかった。


「体験は終了です。精神状態は安定しています」


 端末が言う。安定。善。最優先。地底は、善を安定で定義する。だが安定は、命の条件であって、命の内容ではない。


 医療台から起き上がると、監督官が立っていた。灰色の衣服、抑制された表情、感情の最小化。彼女は“安全”を体現した人間だ。


「検査結果が確定した」


 端末に数値が並ぶ。血液、細胞修復速度、免疫応答、染色体末端の維持率。そこに放射線耐性指数がある。僕は生まれつき、他者よりもそれが高い。理由は知らない。地底は理由を好むが、理由を説明できない例外を嫌う。例外は予測不能だからだ。


「あなたは平均値を逸脱している。地上観測班へ編入される」


 地上観測班。つまり、地上へ行く。ここで僕が拒否できるかどうかは、形式上は可能で、実務上は不可能に近い。地底の同意は、拒否できるように設計されているのではなく、拒否したくなくなるように設計されている。


「なぜ僕なんですか」


 僕はそう言ってしまった。問いは逸脱だ。だが逸脱は、僕の中で育っていた。


 監督官は瞬きを一つする。


「理由は二つある。生物学的理由と社会的理由」


 生物学的理由とは、指数だ。耐性だ。資源だ。社会的理由とは、共同体の必要だ。空気のサンプル、土壌のサンプル、交渉、監視、観測。地上世界は戦争に覆いつくされ、満足のいく死を得ることを至上とした、と教科書は言う。死の質が通貨になり、死の様式が美学になり、死の達成が階級になる、と。


「そして三つ目があるかもしれない」監督官は言った。「あなた自身の理由」


 地底が最も嫌うのは曖昧さだ。指数化できない動機だ。だが彼女はそれを口にした。僕はその瞬間、理解した気がした。僕は選ばれたのではない。選ばされたのでもない。僕は“選ぶ権利がある個体”として利用される。そして選んだ結果が、制度の物語を補強するか、破壊するかは、たぶん僕次第だ。


 同日09:02。地上への昇降区画。


 隔壁は厚い。厚さは安心の単位だ。厚い壁の内側を善と呼び、外側を危険と呼ぶ。地底の倫理は境界の倫理だ。境界の内側だけを人間と呼び、外側を“事象”と呼ぶ。それは残酷だが合理的でもある。合理は善の一形態だ。地底は合理を崇拝している。


 僕は防護服を着る。古い技術だ。だが古さは、故障したときに何が起きたのかが分かる。洗練は、故障したときに何が起きたのかが分からない。死を避ける社会ほど、死に方の不確実性を嫌う。


 昇降機の扉が閉じ、圧が変わる。耳が鳴る。人間の身体は環境の変化を知らせる。知らせることができる限り、まだ間に合う。僕は呼吸を数える癖を思い出す。数える。続いてしまうこと。続いてしまう僕。終わりがない僕。


 上昇。上へ。地底で“上”は禁忌に近い。上には死があると教えられた。だが今、死は“外”ではなく“目的地”として接近してくる。


 遠くで破裂音が響く。地上の戦争は歴史ではなく現在進行形だと、その音が告げる。


 昇降機が停止する。最後の隔壁が開く。


 熱が頬に触れ、匂いが肺に入り、濁った光が目を刺す。地上は、戦争に覆いつくされていた。


 僕は足元に落ちている紙片を見つける。白い。燃え残った白。そこに文字がある。宣伝文句か、遺書か、祈りか。僕は屈んで拾い上げる。


「満足のいく死を」


 地底の壁面に刻まれている言葉と、真逆の倫理が、たった一行で僕の指先に乗る。僕はそれを読み、理解し、そしてなぜか笑ってしまった。笑いは安全ではない。笑いは指数化しにくい。指数化しにくいものは、地底では危険だ。


 善とは何だ。生存とは何だ。死とは何だ。


 問いは、始まったばかりだった。

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