第15話「揺れる感情と、乱れる色」
旧図書室から戻ってきた俺たちは、特に言葉を交わすことなく、それぞれの荷物に手を伸ばした。
沈黙は重たくはなかった。ただ、お互いに考えるべきことがありすぎて、言葉にできなかっただけだ。
泉はバスルームへと向かい、俺はタブレットを手に取り生活ログを確認する。
——やはり、旧図書室にいた時間帯のログが不自然に“空白”になっている。
心拍、会話、表情の記録——通常なら分単位で記録されているはずのデータが、ぴたりと止まっていた。ノイズというより、“意図的な削除”のような印象すらある。
(やっぱり、何かがおかしい)
泉が風呂から戻ってきた。
髪をタオルで拭きながら、俺に視線を向ける。
「何か、変だった?」
「……ああ。あの図書室にいた時間のログ、全部飛んでた」
泉はふっと息を吐き、ソファに腰を下ろした。
「やっぱりね。ああいう部屋がある時点で、ただの教育施設じゃないと思ってた」
「けど、結局あの資料も、よくわからなかったな。制度の初期段階……ってことなのか」
そう呟いた俺に、泉が静かに言う。
「……この制度、本気で“人を育てる”ためだと思ってる?」
問いかけというよりは、確認するような口調だった。
「少子化とか、恋愛離れとか、いくら言い訳を並べても、こんなのただの監視と強制じゃん。誰かに好かれなきゃいけない。愛さなきゃいけない。そんなの、おかしいよ」
その目は、まっすぐで、どこか冷めていた。
「……でも、現にこうして、俺たちは“スコア”で評価されてる」
そう返すと、泉は少しだけ笑った。
「だから言ってるんじゃん。変だって」
その笑みは、諦めとも皮肉ともつかない。
俺はもう一度、タブレットのログを見つめる。空白の波形。突然消える心拍数。そして——自分の能力にも、変化が起きていた。
泉の“色”が、時折、掴みづらくなる瞬間がある。
これまでなら明確に読み取れていたはずの感情の波が、どこか曖昧に揺れて見えた。
(……俺の感覚が鈍ってるのか?)
あるいは——彼女の中で、何かが少しずつ変わり始めているのかもしれない。
明確な答えは、まだ出なかった。
けれど、この制度の裏には、明らかに“何か”がある。
そう確信するには、十分だった。
♦︎
気づけば、時間は夜の十一時を回っていた。
「……なんか、腹減ったな」
呟くと、泉が鞄からコンビニの袋を取り出した。
「カップ麺ある。あとおにぎり、昆布とツナマヨ」
「神……いや、泉が神っていうのはなんか違うな」
「じゃあ黙って食べなさい」
言いながらも、泉はカップにお湯を注いでくれる。俺は素直におにぎりを受け取り、ツナマヨを選んだ。
簡単な夜食。けれど、不思議と心がほぐれていく。
「今日、泉がベッドだったよな?」」
「……そうだけど、そっちがいいなら交代でも」
「いや、交代制って決めたし」
照れ隠しなのか、泉はおにぎりを食べながら顔を逸らした。
その表情には、淡く桃色が浮かんでいた。
風呂上がりの泉の髪からは、まだ微かにシャンプーの香りが残っていて、それを意識してしまう自分に戸惑う。
この感情は、なんだろう。
俺は、少しずつ変わってきている自分に気づいていた。
食事を終えてタブレットに目を戻すと、画面に見慣れない通知が表示されていた。
【一部のログファイルが復元されました】
思わず眉をひそめる。
(復元?……誰が?)
表示されたファイルにはロックがかかっていた。
だが、そのファイル名には見覚えがあった。旧図書室で泉がめくっていたあの資料と、同じ文字列。
「泉……これ、たぶん続きがある」
俺の声に、彼女は静かに頷いた。
「じゃあ、見に行くしかないね。次は、もっと深く」
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