切り拓く者、祈る者
祈りは力になる。願いも信仰も、きっと人を強くする。
これがこの世界の共通認識だ。人々は神に祈り、神の加護を受け、世界は今日も回る。
各国が信仰する対象は様々だが、世界共通の“大元の神”がいる。名をアストラ。星を創ったのだとか、世界を創ったのだとか語られるが、真相は闇の中にある。
この世界、ギュスターヴは主に七つの巨大都市が治めている。音楽の国カデンツァ、美しい海や川が広がる海洋都市アトラシオン、山岳に位置する獣人の武装国家ヴァルファ、一面の砂地が続く灼熱の国ウルト・ホープ、深い森と豊かな果実に満ち“楽園”と呼ばれるエリュシオン、極寒の荒地の銀世界に佇む連合国ノスカルド・リベラル、そして東の海に浮かぶ独自文化の巨大群島イストワール。
イストワールの小さな村シーファは、風を信仰する。教会以外に目立つものはないが、ギュスターヴでも名高い精霊教会には毎日多くの参拝客が訪れる。
今日もシスターは誰かのために祈り、懺悔と祝詞を捧げている。白を基調に青の差し色。裾や袖にゴシックの刺繍とレース。首に下がる十字架が静かに光る。
少女は今日も祈る──自分のためではなく、誰かのために。その様子を、椅子に座り、ただ静かに待つ少年が見つめていた。
「シーファ様、アストラ様、今日も迷える子羊達をお導きください」
「祈織、飯食いに行こうぜ」 「ふふ、いつも大人しく待っててくれてありがとう」祈織は微笑み、ヴェールを整えた。 ふたりは裏手の小さな台所でパンとスープを分け合う。祈織は小声で祈りの予定を、拓真は風車の修繕計画を話す。穏やかな昼前。
午後の祈りが終わるころ、風の村シーファにいつもと違う空気が流れた。市場の棚は思いのほか寂しく、干し魚の樽は底を見せている。果樹園の主は首を振り、畑の女たちは空を仰いだ。
「今年は、風が痩せてる」 老農がそう言ったとき、誰も笑わなかった。祈祷塔の風鈴は鳴るのに、実りだけが重さを失っていた。
「昼餉の席で、拓真はパンを頬張りながらぽつりと漏らした。 「風車の動きも悪いし、嫌な風がきそうだな」 「私の祈りが届かなかったのかしら? まだ半人前だし、もっと祈るわ」祈織は自分を鼓舞するように笑う。「だって、食べるのが好きな拓真も、ご飯がなくなれば困るでしょう?」 「……そうだな」拓真はスープを啜り、静かに頷いた。
夕刻、教会の広間に村人が集められた。壇上には村長と司祭代理(祈織の祖父)。古びた聖典が机に置かれている。
「諸君、今年の不作は深刻だ。風の加護が薄い。ゆえに──古き供物の儀を復したい」 ざわめきが走る。司祭代理が聖典の一頁を開いた。 「風祝の贄。古の時代、凶年には風神へ幼子を捧げ、吹き戻りを願った、と」
祈織が立ち上がる。「そんなの、間違ってます。祈りは誰かを傷つけるためのものじゃない」 拓真も一歩出る。「昔がどうであれ、今は人の時代だ。命を賭けない祈り方を探すべきだ」
だが、疲弊した村人たちの目は揺れていた。恐れと焦りは理屈を呑み込む。 「抽籤で一人だけだ……」「今年を越えねば、皆が死ぬ」 司祭代理は静かに告げる。「明朝、祈祷塔にて」 祈織の顔から血の気が引いた。「お爺ちゃん、どうして……」その場に膝をつく。 拓真は拳を握りしめ、一歩踏み出す。「説得しよう。誰かを犠牲にするのは間違ってる!
「……拓真」祈織が呼ぶ。声は強いのに、指先が少し震えている。 「行こう。司祭代理に話をする」 祈織は頷いた。二人は讃風堂の裏手へ回り、司祭館の灯りを目指す。途中、空を見上げた老農と目が合った。老農は口の中で何かを唱え、胸の前で風鈴の形を作る。祈りとも、免罪ともつかない仕草だった。
「……みんな、怖いんだ」拓真が呟く。 「うん。怖さは、祈りを早く欲しがるから」祈織は自分に言い聞かせるように答えた。「でも、だれかを傷つける祈りは、祈りじゃない」
司祭館の扉を叩くと、古い蝶番が短く鳴いた。灯の下、机に聖典と古文書を広げた司祭代理が顔を上げる。祈織の祖父だ。白い眉、節くれ立った指。祈織に似た澄んだ目は、今は深く曇っている。
「……来ると思っておった」祖父は椅子を勧めず、ただ静かに言う。 「お爺ちゃん!」祈織が一歩出る。「古き供物の儀は、間違ってます」 「間違いも正しさも、今年は秤にかけられんのだよ」祖父は面を伏せ、聖典に触れた。「食糧庫(風倉)はほぼ空、港は時化で船が出ない。願風が三旬も差さぬ。風鈴が鳴らぬ夜が続いただろう」
「鳴らないからこそ、鳴らす方法を探すべきです」祈織が机に両手を置く。「祈りは誰かの命を対価にするものじゃない」
祖父の喉がわずかに鳴った。反論ではない、記憶を攪ぐような咳払い。 「……祈織。わしも、そう思っていた。だが村はわしの想いでは救えん。わしは加護を取り戻さねばならぬ。方法が古かろうと、汚れていようと」
「なら、別の祈り方を用意します」拓真が口を開く。祖父の視線が移り、若者をじっと測る。 「……どうやって?」
言葉が出なかった。感情だけでは人は動かせない。拓真は奥歯を嚙みしめ、言葉を探すが、出てこない。 沈黙を破ったのは、祈りの言葉だった。
「今から祈ります。皆のために──想いは届くって、私は信じてる」祈織の声は揺れていない。
想いは届く。その言葉が、祖父を動かせなかった自分の胸に刺さる。説得に来て、何も出来ない──拓真は拳を握りしめることしか出来なかった。
「陣を敷いて、暁の迎え風に合わせて祈る。星に願いを、想いと人々の祈りを風に乗せて必ず」
祖父は鼻を鳴らし、深く息を吐いた。 「陣術も祝詞も半人前のお前に、何が出来る。口では何とでも言える。人を説く前に、まず自分で動いてみせよ。 もしお前の言う通り、風を運び、風車を回せたなら──今は保留にしておこう。……じゃが時間はない。各国でも似たことが起きとるらしいからな」
長い沈黙が落ちた。風窓から細い夜風が流れ込み、机上の薄紙がめくれる。祖父は閉じた聖典の背を撫で、ようやく頷いた。
「……明けの鐘が三つ鳴るまで。それが、わしの限界だ。そこまではお前の好きにせい」 「ありがとう」祈織の声がかすかに震えた。
「行こう、祈織。俺が後ろで見守ってる」 「……うん」祈織が短く頷く。帰り際、祖父が呼び止めた。
「拓真」 「はい」 「祈織を守れ。……祈りは、強い者ほど我が身を削る」 「守ります。祈織は俺の幼馴染ですから」
ふたりが部屋を出ると、祖父はひとり残った灯に手をかざし、静かに祈った。 「……すまぬな、若人よ。民の怒りも、神の怒りも、この老いぼれが受けよう。アストラ様、風の化身シーファ様──あの子らに明るい未来を」
司祭館を出ると、夜の風が少し冷たくなっていた。讃風堂の回廊には、昼間よりも多くの無音の鈴が吊られている。鳴らないはずの鈴が、どこかで微かに触れ合った気がした。
「行こう、祈織」 「うん。祈りの道を作るわ」
ふたりは暗い回廊を並んで歩き、祭壇へ向かった。鐘が朝を告げるまでの短い夜が、静かに始まる。
聖堂の扉を閉じ、灯を最低限に落とす。祈織はヴェールを脱ぎ、祭壇の石床に陣を描き始めた。、祈り紋の欠けを補うように渦を重ねていく。
「……いけるか?」 「いける。神じゃなく、人を祈る方向に指向を変えた」
祈織は陣の中心に跪き、掌を胸に重ねる。息を整え、讃えの祈唱を低く紡ぎ始めた。
「風の守り手、行き交う願いの渡し守。痛みを半分、私に。人の背に、今日を越える力を」
祈織は祈唱の節を一度落とし、対位を試す。拓真は風窓の開度を変え、回廊の布を束ねて風の流れを細くする。鈴の舌が触れる寸前で止まり、金属の冷たさだけが空気に滲んだ。
時が一つ過ぎる。
祈織は祝詞へ移り、古い言葉を織り込む。声は次第に掠れ、額に汗が滲む。小さな咳。唇が白い。
拓真は水を汲み、一口だけ含ませる。「休め」 「今はダメ。間を逃す」
時が二つ過ぎる。
祈織は陣の線を指でなぞり、震える指を止めた。拓真がその手をそっと押さえる。 「無理はするな」 「無理をするのが、今」祈織は笑ってみせた。けれど指は震えている。
祈唱が細くなり、声の芯だけが残る。
祈織の肩が、ふっと落ちた。 「祈織──!」 拓真が抱き留める。体は熱く、軽い。灯の影が大きく揺れ、白粉の線が一部崩れた。
「……ごめん。もう少し、だった……かも」 「謝るな。十分すぎる」
拓真は外套を掛け、額に手を当てた。水を布に含ませ、こめかみを冷やす。背に手を回し、呼吸を整えるよう優しく叩く。祈織の睫毛が震え、やがて静かに閉じた。
祭壇脇に祈織を寝かせると、拓真は崩れた陣の端だけを直し、鈴架に背を預けて座り込んだ。
(祈るのは祈織で、守るのは俺だ。そう決めてた。でも、戦ってるのは、祈織の方だ)
(俺は、待ってるだけか?)
拓真は拳を握り、そっと、祈織の指先に自分の指を添える。
「……祈織。祈りは人のためにある。お前はいつも、それを実際にやってる」
「だから今度は、俺の番だ。道がないなら──俺が切り拓く」
深く息を吐いた瞬間、鐘が遠くで一つ鳴った。夜がほどけ、空の色がわずかに薄くなる。
朝を告げる鐘が、澄んで落ちた。条件の刻限が終わる。祈織は上体を起こし、陣の中心に視線を落とした。
祈織の睫毛が震え、瞼が持ち上がる。「……朝?」 「朝だ」
「やれることは、全部やった」
「……ありがとう、拓真」 夜の祈りは、不発に終わった。だが、ふたりの目は、もう折れてはいなかった。
明け色が広場を洗う。教会の根元に人が集まり、息だけが重く澱んでいた。壇上には村長、帳場の机、ふたの付いた木箱。司祭代理──祈織の祖父は、細い息を整えながら立つ。
「始める」村長の声は乾いていた。
木箱の中には同じ形の木札がいくつも。裏に黒い点がひとつだけ。名を呼ばれた者が一枚ずつ手に取り、握り込む。木目が汗に貼りつく。
順番が進む。粉屋、舟頭、助産婆、老農……目は合わない。やがて──粉屋の妹ミナが震える指で木札を返した。裏に、黒点。
「いやだ……いやだいやだ、いや──!」 ミナが後ずさる。粉屋が飛び出し、妹を背に庇った。「俺が行く。俺に──」 「抽籤は決だ」村長が遮る。年寄り衆が無言で腕を伸ばし、粉屋の肩を押さえた。
ミナは首を振り続ける。目には涙。手は空を掴むばかりで、掴めるものがない。 「お願い……やだ、助けて……!」
数人がかりで、ミナの両腕が取られた。布が肩に掛けられ、足が縛られる。「やめろ!」粉屋が暴れ、押さえつけられる。拓真が割って入る。「代わりは俺だ!」腰の剣に触れかけたところで、複数の腕が背中から絡み、押さえ込まれた。
「公平が崩れれば、村は割れる」村長の声は遠い。「誰かが背負うしかない」 「公平のために誰かを差し出すのが正しいのか!」拓真の怒声が広場に散って消える。
祈織は一歩、石台へ進もうとして、足が進まなかった。足が鉛のように重く、膝が細く震え、喉が締まる。声が出ない。 祖父が一度だけ祈織を見た。痛みのある眼差し。そして、石台に上がった。
古い布が敷かれる。祖父の低い声が続く。言葉は簡素で、長くはない。祈織は唇を噛み、両手を胸に重ねた。涙は落とさない。
「ミナ──!」粉屋の叫びは、肩を抑える手に呑まれた。拓真は身を捩るが、腰と両腕が拘束されている。縄が軋む。
広場が一瞬だけ静まり、風が走った。
布が沈み、鮮血に染まる赤がその惨状を物語る。若い息が引き換えに風を運んだ。 次の瞬間、突風が村を貫いた。塵が巻き上がり、垂れていた旗が引き裂かれ、遠くの畑で乾いた葉が波のようにめくれ上がる。人々は思わず顔を覆う。幾人かはその場に膝をつき、震えながら「通った」と呟いた。
祖父の手がかすかに震えているのを、祈織は見た。村長は目を閉じ、静かに頷く。
「……終わった」誰かが言った。粉屋は声を失い、拓真は歯を食いしばる。祈織は両手を強く握り、空を仰いだ。
成功したのだと、皆が思った。
けれど、風の向きが変わった。
埃が地面から吸い上がり、影が逆側へ伸び、空の色がひと段深く沈む。祈祷塔の輪郭が揺れて見える。遠くで犬が吠え、子どもが泣き出す。
石台に裂け目が走った。そこからなにかが覗く。風の化身と呼ばれた名残をねじった、異形のシーファが、顔を出した。
伝承に描かれた風の化身に、似ていた。けれど、禍々しい。流れるはずの輪郭が裂け、空ろの目が風そのものをえぐり取り、口にあたる隙間は吸いこむだけで返さない。皮膜のような翅がひとたび震えると、広場の砂が逆巻き、人の声が消えた。
「おぉ、顕現なされたのですね。シーファ様……! お救いを──」 村長が一歩、前へ。祈祷塔の根の石段を降り、両手を広げかけたその瞬間、空気が線になった。村長の胸元に黒い裂けが走り、遅れて赤が滲む。膝が折れ、石に肩が当たる音だけがやけに大きく響いた。
「やめて!」祈織が叫び、懐から取り出した小刀で縄を切った。拓真の手首が自由になる。祈織は振り向きもせずに声を張る。「皆、下がって! 家の影へ! 段丘道へ! 子どもと年寄りから!」
「ミナ!」粉屋が石台へ駆け寄る。布の上の小さな形を抱きしめるように覆いかぶさった。 「返してくれ……頼む、返して──!」 突風が地面から立ち上がった。粉屋の背が弓なりに反り、抱いた体ごと宙に持ち上がる。覆いかぶさったまま、柱に叩きつけられた。短い息。力が抜け、二人は動かない。
「下がれ!」拓真は倒れかけた屋根板を肩で受け、投げ捨て、崩れた壁の隙間から子どもを抱き上げて渡す。「走れ!」 風が横から叩く。足が滑り、土が削れる。目の前で木製の屋台が粉になった。舞い上がった破片が頬を切る。痛みはすぐ風に持っていかれた。
祈織は石段の上に立ち、胸の前で両手を重ねる。声は震えない。 「返して。風よ、奪うのではなく、この村に返して。今日を越える力だけを──」 荒れが一瞬だけ凪いだ。祈織の前に細い通り道が生まれ、人々がそこをすり抜ける。だが次の呼吸で、渦が戻る。祈織の足元の砂が抜け、石段の縁が欠けた。
拓真は剣を正面に構える。ただ押し返す。襲いかかる何も見えない重みに、刃を水平に置き、肩から押す。腕が痺れ、靴底が擦れて火花が散る。前へ一足。さらに一足。 「来い……! 来るなら、俺に来い!」
空の裂けが大きく開く。中から骨のように細い腕が数本、風で編まれた指を伸ばす。触れた屋根が裏返る。石が浮き、塔の壁にめり込む。祈織の祈りは細く、しかし切れない糸のように続く。 「奪わないで。誰かの命を代価にしないで。祈りは、傷つけないためにある」
轟が落ちた。拓真の視界が白く弾け、砂と木片で世界が埋まる。耳の奥で圧が鳴り、鼻に土と鉄の匂い。膝が折れ、しかし手は剣を離さない。誰かが腕を掴む。振り向けば、顔の煤けた少年だ。拓真はその手を握り、走らせる。
祈祷塔の根が裂けた。段丘の壁が剝がれ落ち、家々が滑り、人の列が崩れる。祈織が声を張る。「こっちへ! 集まって!早く!」 数十人がそこへ雪崩れ込み、抱き合い、顔を伏せる。
――村は壊れた。
最後の突き上げで、教会の上半分が倒れ、影が祈織たちへ落ちる。拓真が跳び、崩れ材を両腕で受け止める。持たない。骨が鳴る。
そのとき、風の膜に切れ目が走った。誰かの影が、その切れ目から差し込む。
突風が真正面から滑り込んでくる。逃げ場はない。祈織の前髪が持ち上がり、拓真の足裏が地を離れかけた、その瞬間——
「伏せるのよ!」
世界から音が消えた気がした。圧だけが残り、空気の肌触りが逆向きに流れる。顔を上げると、目の前に小さな体躯、大きな帽子、透きとおるブロンドの髪が風に揺れていた。少女は片手に指揮棒のような杖を握り、地を一度だけ叩く。透明な衝撃が前方へ走り、迫るものが弾かれる。
旅装の少女は帽子の影から片目を覗かせ、少しだけ口角を上げた。 「そこのシスター。——歌えるかしら?」 「え?」 「言葉を変えましょう」少女は早口で言う。「祈りは、誰のために捧げるの?」
祈織は息を吸い、喉の震えを押し込める。 「……神様のためじゃない。みんなのため。人のために祈りを捧げるわ!」
「上等」帽子のつばがわずかに跳ねる。「音に乗せてあなたの祈りを流すわ。こいつが神様なら、少しくらいは聞くかもしれないわね」
少女は杖を横にひとなぞり、空に細い輪を描いた。輪は幾重にも重なって広がり、祈織の胸元から立ちのぼる言葉を拾い上げる。声が道になる。拓真にはそれが、目には見えない壁として前方に張り出していくのがわかった。
「——返して。」祈織が言う。「奪うんじゃない、返して。今日を越える力だけを」
圧が揺れ、前方の裂けが歪む。空ろの目がこちらを逸らし、風で編まれた腕が後ずさる。地表の砂が一斉に沈み、倒れかけていた祈祷塔の破片が転がり落ちた。
「いまのうちに——退いて!」少女が振り向かずに叫ぶ。祈織は頷き、避難の列を再び動かす。拓真は最後尾に回り、崩れた壁を肩で押し、通路を広げた。
異形は完全には消えない。ねじれた輪郭が再び寄ってくる。少女は短く舌打ちし、杖の先で地をもう一度叩いた。透明の衝撃が重なり、押し返す。
「時間は稼いだ。続きは——次で決めるわ」帽子の下、瞳が冷たく光る。少年少女の祈りが一つの道になって、一時的に怪物は後退した。
異形は再び寄ってくる。祈織の前だけを狙うかのように、空気の重さが一点に集まる。砂が細く立ち上がり、彼女の足首に絡みついた。
旅装の少女はちらりと拓真の剣を見た。錆びたような名もなき刃。だが、彼女の目がわずかに細くなる。 「それ、震えを乗せられるわ。高い震え。貫けるかもしれない」 「やれることはやる」拓真は短く返す。
少女は杖の先で刃の側面を軽く叩き、耳では拾えない細かな震えを刃に走らせた。次いで拓真の足音と息を、ひと撫でで消す。「音は私が消す。あなたは刺すだけ」
異形は執拗に祈織へ向かう。祈織は一歩、前へ出た。 「——こっち。返して。奪ったものを、ここに」 声が道になる。怪物の空ろの目が振り向く。狙いが祈織に固定される。
その背後の影から、拓真が走った。音のない足が地を蹴り、一息で間を詰める。刃が震え、手の中で細い抵抗を訴える。
「——ッ!」 拓真は突きを選んだ。斬らない。貫く。 異形の胸にあたる空ろへ、刃先が吸い込まれる。硬さはない。けれど抜けない。全身の力で押す。肩、腰、足。全部使って押し切る。
空の裂けが縮む。風で編まれた腕が千切れて藻掻く。
「今——!」少女が広げた透明の壁が、怪物の残りを押しとどめる。拓真は刃を引き、もう一度だけ突いた。震える刃が縫い止め、異形の輪郭がほつれていく。
やがて、風は止んだ。
静けさが戻ると、まず泣き声が広がった。残った者たちが互いを抱きしめ、崩れた家を見上げる。粉屋はミナの名を呼び続け、声が擦れても止めなかった。
拓真は刃を下ろし、祈織の肩を支える。旅装の少女が帽子のつばを指で上げ、短く息を吐いた。 「——やるじゃない。二人とも」 祈織が微笑み、涙を拭う。「ありがとう。あなたは……?」 「私は、アリ——」少女は言葉を飲み込んだ。ほんの一瞬、視線が揺れる。「マリナ。ただの旅人よ」
祈織は不思議そうに頷く。拓真は少女の杖と仕草に、どこかの都の匂いを感じたが、追及はしなかった。
少女——マリナは壊れた広場を見回し、声を落とす。 「ここだけじゃない。カデンツァでも、似たことが起きてる。世界のいくつかで、祈りが返ってこない。それどころか、奪われてる」
祈織が拳を握る。「止めたい。誰も傷つけない祈りに、戻したい」 拓真は頷いた。無名の剣を見下ろし、短く言う。「行こう。道がないなら、俺が切り拓く」
マリナは小さく笑った。「神を屠った二人なら、世界にも届くかもしれないわね。……一緒に来ないかしら?」
崩れた村の端で、朝の光がようやく地に届いた。三人は瓦礫の間に立ち、短くうなずきを交わした。
崩れた石台の脇に、静かな輪ができた。布が掛けられ、名が呼ばれ、短い言葉が地に落ちる。誰も大声で泣かなかった。声を出すと、ここにいる理由が崩れてしまう気がしたからだ。
祈織の祖父——司祭代理が歩み出る。手には薄い冊子と、古めかしい杖。 「祈織」祖父は小さく首を垂れた。「間違っていたのは、わしではなく、世界かもしれん。それでも、謝らせてくれ」 祈織は首を振る。「お爺ちゃん……」
祖父は薄い冊子を差し出す。白紙の聖書だ。表紙だけが古く、内は真っ白。 「書け。見聞いたもの、願い、祈り、そして人の選びを。いずれこれは世界史になる。お前が世界の為に祈った証になる」
次いで、杖を両手で渡す。灰木に銀の輪が嵌め込まれた、一子相伝の司祭杖。 「讃風杖。祈織が一人前だという印だ。これを携えて、世界を見てこい。目で、耳で、心で」
祈織は受け取り、額に軽く当てた。「ありがとうございます。……必ず返してみせるわ。私たちの奪われた祈りを」 拓真は無名の剣を胸に立て、短く言う。「この剣に誓う。俺は祈織も世界も、守ってみせる!」
輪の中から、いくつもの低い声があがった。名もなき弔い。残された者たちが互いの肩に手を置き、ゆっくりと解散していく。
旅装の少女——マリナが、人々へ向き直る。 「落ち着いたら、カデンツァに来なさい。あの都は新しい音を受け入れる。住まいも手配できるはず。今はここで大人しくするのよ」 誰かが「行けるだろうか」と呟き、別の誰かが「行こう」と背を支えた。
拓真と祈織は最小限の荷をまとめる。布に包んだ水と乾いた糧、祖父が持たせた路銀、無銘の剣、白紙の聖書、讃風杖。司祭代理は二人の額に手を置き、静かに頷いた。
「見届けに行きましょう」マリナが言う。「もうこんな事は起こってはだめ」祈織が応え、拓真が肩で受け止めるように笑った。
三人が段丘道へ歩き出す。朝の光はまだ淡い。崩れた村の陰で、影がひとつ、立ち止まっていた。
薄い外套、片手に手帳、もう片手に羽根ペン。人物は遠目に印章を輝かせ、ぎっしりと詰まった文字の羅列の余白に短く名を記した——
ガゼット・インクルーシブ。
その人物は小さく頷き、手帳を閉じる。三人の背をわずかに追う距離を保ったまま、別の道を選んだ。