第80話 賢者の城は六畳間、そして
収穫祭の賑やかな喧騒が過ぎ去り、街に、穏やかな秋の気配が深く満ちていく。
田中修一の日常は、新しく、そして、どこか懐かしいリズムを刻み始めていた。
週に三日、彼は、市の非常勤特別顧問として、コミュニティ農園へと通う。畑の次の計画を、凛や、岩田師匠と話し合い、仲間たちと共に土に触れる。
そして、それ以外の日は、自宅でゆっくりと過ごす。
その日の夕食の食卓には、農園で採れたばかりの大根を使った、ブリ大根が湯気を立てていた。
「まあ、今年の大根は本当に味が濃いねえ」
母・春子が、目を細めて言う。
「岩田さんの、土づくりのおかげだよ」
「そうかねえ。私は、あんたが毎日、楽しそうに畑に通ってるからだと思うけどね」
二人は、顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。
かつて、重たい沈黙だけが支配していた、この小さな食卓は、今、世界で一番、温かい場所になっていた。
食事を終え、修一は、自分の部屋に戻った。
賢者の城、六畳間。
その城は、今、彼の帰りを静かに待っていた。
カーテンは開け放たれ、窓からは優しい月明かりが差し込んでいる。部屋は、きれいに片付けられ、本棚には、彼が書き溜めた『攻略マニュアル』が、凛の青いバインダーと、仲良く並んで立てかけられていた。それは、長く困難な冒険の、大切な記録だ。
彼は、パソコンデスクの椅子に腰を下ろした。
電源の落ちたモニターの黒い画面に、ぼんやりと自分の顔が映り込んでいる。
そこにいたのは、もう、かつてのような、絶望に、やつれた亡霊ではない。
日に焼け、少しだけ引き締まった、穏やかな顔つきの、54歳の、ただの中年男の顔。
彼は、その顔を、ただ、じっと見つめた。
そして、ようやく、受け入れることができた。
英雄でも、賢者でもない。ただの不器用で、臆病で、それでも誰かのために、必死になにかをしようともがいた、この、自分自身を。
机の隅に置かれた、小さな観葉植物の鉢。
彼が、それに、ふと、視線を向けると、頭の中に温かい情報が流れ込んできた。
【ポテンシャル:健やかに、成長中】
彼の能力は、もう、暴走しない。それは、彼の日常に静かに溶け込み、世界をほんの少しだけ豊かに彩る、ささやかな祝福となっていた。
彼は、窓を開け、ひんやりとした夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
遠くに街の灯りがまたたいている。そして、その灯りの向こう側。あの畑も、今は静かな、夜の闇に包まれているはずだ。
滅亡。
かつて、彼を苛み続けた、その言葉。
田中家の血筋は、おそらく、彼の代で途絶えるだろう。
だが、もう、それでよかった。
彼は、確かに、種を蒔いたのだから。
あの土地に、野菜の種を。
そして、人々の心に、温かい繋がりの種を。
その種は、きっとこれからも、芽吹き、育ち、たくさんの実りをもたらしてくれるだろう。
それこそが、彼が、この世界に遺すことができる、確かな、何かだ。
修一は、窓の外の景色を眺めながら、静かに微笑んだ。
その笑みは、滅びゆく男の諦観ではなかった。
自らの人生を、悔いなく、生きる男の、満ち足りた、安らぎの笑みだった。
――― 賢者の城は六畳間・完 ―――




