第79話 収穫祭
収穫祭当日。2026年8月29日、土曜日。
かつて、「絶望の大地」と呼ばれた、あの荒れ地の面影は、もう、どこにもなかった。
その場所には、手作りの温かい横断幕が掲げられていた。
『第一回・にこにこふれあいコミュニティ農園・夏の大収穫祭』
テントが張られ、テーブルが並び、畑には、この一年半で見たこともないほど大勢の、人々の笑顔が咲き誇っていた。
焼きトウモロコシの、香ばしい匂い。子供たちの、甲高い、はしゃぎ声。大人たちの、賑やかな、談笑。
すべてが混じり合い、心地よい幸福な喧騒となって、夏の終わりの青空へと、吸い込まれていく。
それは、かつて、修一が、佐々木凛の企画書の中に垣間見た、輝かしいポテンシャルの、完全な具現化だった。
「はい、そこのお嬢ちゃん! このトマトを食べてみな! そこらのスーパーのトマトとはワケが違うぞ!」
畑の一角に設けられた野菜の直売コーナーで、法被姿の岩田茂が、訪れた客に自慢げに声を張り上げていた。その顔は、相変わらず頑固で、ぶっきらぼうだ。だが、その目には、自分が育てた野菜への深い愛情と誇りが、キラキラと輝いていた。もはや、彼の周りに孤独の影はなかった。彼は、この畑の誰もが尊敬する、名誉師匠だった。
「渡辺さん、焼きそば、追加お願いしまーす!」
「あいよっ!」
焼きそばの屋台では、渡辺さん夫妻が、慣れた手つきで鉄板を操っている。佐藤さん親子は、子供向けの野菜スタンプコーナーで笑顔を振りまいている。かつての仲間たちは、今や、このコミュニティの、なくてはならない中心メンバーとして、生き生きと輝いていた。
そして、その、すべての輪を、少しだけ離れた場所から、穏やかな顔で見守っている男がいた。
田中修一だ。
彼は、特定の持ち場にいるわけではない。テーブルのぐらついた脚に、板を挟んで直したり。氷が足りなくなったジュースのクーラーボックスに、氷を補充しに行ったり。彼は、ただ、静かに、この祭りがスムーズに進むように全体を見守り、足りない部分を、そっと補って回っていた。
人と人を繋ぐ者。人と土を繋ぐ者。
それが、彼が見つけた、自分自身の役割だった。
「―――田中さん」
不意に背後から、凛の明るい声がした。
彼女も、揃いの法被を着て、その額には、心地よい汗が光っていた。
「大成功、ですね」
「……ええ。本当に」
「これも、すべて、田中さんが、いてくれたおかげです」
「いえ、俺は何も。みんなが、頑張ったからです」
その、いつものやり取り。だが、その言葉には、もはや、卑下も謙遜もない。ただ、事実として、彼は、そう思っていた。
凛は、くすりと笑うと、一枚の封筒を彼に差し出した。
「……なんですか、これ?」
「市役所からです。正式な、辞令、ですよ」
修一が、おそるおそる封筒を開けると、中には一枚の固い紙が入っていた。
『田中 修一 殿
貴殿を、川崎市コミュニティ農園の、非常勤特別顧問として、任命する
令和八年 八月吉日 川崎市長』
その、あまりにも立派な肩書に、修一は、目を丸くした。
凛が、いたずらっぽく、笑う。
「もう、『無職』だなんて、言わせませんからね。これは、田中さんが、ご自身の力で勝ち取った、新しい『お仕事』です」
非常勤。給金は、わずかなものだ。
だが、そんなことは、どうでもよかった。
彼は、もう、社会から断絶された、孤独な人間ではない。
この街で役割を持ち、誰かの役に立ち、その対価を得る。
その、当たり前の、しかし、彼が、とうの昔に諦めていた、社会との繋がり。
彼は、その一枚の紙を、まるで、宝物のように、強く握りしめた。
彼は、顔を上げた。
目の前には、たくさんの笑顔が広がっている。
賢者が、築き上げた王国。
それは、彼一人のものではなく、そこに集う、みんなの王国だった。
そして、彼は、その王国の、名前もない、しかし、誰よりも誇り高い守り人なのだ。
彼の胸は、温かく、力強い、満足感で満たされていった。




