第75話 雪解け
「一年、棒に振る覚悟でな」
岩田茂の、その、ぶっきらぼうで、しかし、あまりにも的確な最初の教え。
それは、暗闇の中で出口を見失っていた、田中修一にとって、何よりも確かな道しるべとなった。
目の前にいる、この偏屈な老人は本物だ。
彼の長年の経験と、土への深い愛情に裏打ちされた、その言葉の重み。
修一は、こみ上げてくる熱いものを必死でこらえた。そして、膝をついたまま、地面に額がつくほど、深く、深く、頭を下げた。
「……ありがとう、ございます」
その、心の底からの感謝の言葉に、岩田は気まずそうに顔をそむけた。
修一は、ゆっくりと立ち上がった。そして彼は、この最後のクエストを終わらせるための、次の一手を打った。
「岩田さん」
彼のまっすぐな視線。
「もし、よろしければ……。俺たちに、一から教えては、いただけませんか。あなたの畑のことを」
その、あまりにも大胆な、弟子入りの申し出。
岩田の厳しい顔が、さらに険しくなった。
「……ふん。わしは暇人じゃねえ」
彼は、吐き捨てるように言った。
「お前らみたいな、素人のお守りなんざ、やってられるか。自分の畑は自分で面倒見ろ」
それは、明確な拒絶の言葉だった。
だが、修一の心は、もう揺らがなかった。彼の能力が教えてくれていた。岩田の、その、言葉の裏にある、かすかな動揺と戸惑いを。
「……分かりました」
修一は静かに頷いた。
「無理を言って、すみませんでした」
彼は、それ以上、食い下がることはしなかった。ただ、もう一度、岩田に深々と頭を下げると、踵を返し、自分の帰るべき場所へと歩き出した。
その、あまりにも、あっさりと引き下がる彼の背中を、岩田は、いぶかしげな目で見送っていた。
農園の入り口まで戻ったところで、修一は、もう一度だけ、岩田の家の方を振り返った。
そして、この戦いの最後の一手を放った。
彼は、まだ、こちらを見ていた、岩田に向かって、腹の底から声を張り上げた。
「岩田さん! ありがとうございました!」
その声は、畑中に響き渡った。
「俺たちは諦めません! あなたが教えてくれた通り、この冬、この土を、しっかり寒さに晒します! そして春になったら、レンゲを植えます! たとえ、一年かかっても! 必ずこの土を生き返らせてみせますから!」
それは、弟子からの決意表明だった。
あんたの教えは、確かに受け取った。そして、俺たちは、それを本気でやり遂げてみせる、と。
その、あまりにもまっすぐで、愚直なまでの宣言。
岩田は、呆気にとられたように、ただ、その場に立ち尽くしていた。
修一は、今度こそ、本当に背を向けた。
彼の顔には、不思議な晴れやかさが、あった。
断られた。だが、負けたとは思わなかった。
自分は、やるべきことをやった。あとは、自分たちの覚悟を行動で示すだけだ。
一人、縁側に残された岩田茂。
彼は、去っていく修一の、小さな、しかし、どこか大きく見える背中をいつまでも見つめていた。
彼の、頑なだった心の分厚い氷。
その氷に、確かに亀裂が入っていた。
修一が灯した、敬意という名の小さな火が、その亀裂の奥で、かすかな熱を放ち始めていた。
長い、長い、冬が、終わろうとしていた。
この畑にも、そして、この、孤独な老人の心にも。
雪解けの季節は、もう、すぐ、そこまで来ていた。




