第74話 土の問答
「岩田さん……」
田中修一の静かな声が、冷たい空気に響いた。
目の前で、縁側にふんぞり返っている岩田茂は、まだ侮蔑と警戒の色を、その深い皺の刻まれた顔に浮かべていた。
修一は、構わなかった。彼は、ただ、ゆっくりと言葉を続けた。
その言葉は、彼の魂からの告白だった。
「俺には、この土の声が聞こえません」
その、あまりにも意外な言葉に、岩田の眉が、ぴくりと動いた。
『土の声を聞く男』。
仲間たちが畏敬の念を込めて呼んだ、その称号。修一は、それをいとも容易く、この好敵手の前で、自ら脱ぎ捨てたのだ。
彼は、差し出した布袋の中の死んだ土を見つめた。
「俺は、この土を殺しました」
その声に、後悔と、そして、どうしようもない無力感が滲む。
「俺の未熟さのせいで。俺の弱さのせいで。この土が持っていたはずの、豊かなポテンシャルをすべて奪ってしまった」
彼は、顔を上げた。
そして、初めて、岩田の目をまっすぐに見つめた。
その瞳には、もはや恐怖の色はない。ただ、教えを乞う、弟子の真摯な光だけが宿っていた。
「この土が、どうすれば、もう一度生き返るのか。……どうか、俺たちに教えてください」
それは、降伏宣言だった。
そして、同時に、最大限の敬意の表明だった。
あんたが、正しい。俺は、間違っていた。あんたこそが、本物だ。俺は、偽物だ。
だから、どうか、その、本物の知恵を、俺に授けてはもらえないだろうか。
修一の、その、言葉なき言葉が、岩田の固く閉ざされた心の扉を、激しく叩いた。
岩田は、言葉を失った。
彼は、あらゆる反論を想定していた。言い訳、逆ギレ、泣き落とし。そのすべてを、一刀両断に斬り捨てる準備はできていた。
だが、この、あまりにも無防備で、あまりにもまっすぐな降伏は、彼の想定を遥かに超えていた。
彼の最も得意とする、プライドという名の鎧。
その鎧が、今、目の前の男の、あまりにも柔らかな、 謙虚さという名の一撃によって、内側から崩されようとしていた。
「……」
岩田は、沈黙したまま、ゆっくりと縁側から降りると、修一の前に立った。
そして、彼が差し出す布袋を、無言で受け取った。
彼は、その、死んだ土を、手のひらに広げた。
ごつごつとした年老いた、しかし、現役の農家の指先が、その土の感触を確かめる。
「……氷か」
ぽつりと彼が呟いた。
「氷にやられた土は、ただ、死ぬんじゃねえ。土の中の水分が凍って、膨張して、土そのものの構造を、内側から破壊しやがる。これじゃあ、もう、どんな作物の根も、張ることはできん」
それはまさしく、完璧な死の診断だった。
岩田は、しばらく、その手のひらの中の、土の死骸を見つめていた。
彼の心の中で、激しい葛藤が渦巻いていた。
長年の孤独が生み出した頑なさ。素人への侮蔑。
そして、それと同じくらい強く、彼の魂に刻み込まれた土への深い愛情。
目の前の、この、腰抜けの男は、憎い。
だが、この死んでしまった土は、もっと、憎い。
いや、違う。憎いのではない。
―――可哀想だ。
長い、長い、沈黙の後。
岩田は、手のひらの土を、ゆっくりと地面に返した。
そして、目の前で、まだ膝をついたまま、判決を待つ修一を、見下ろした。
そして、吐き捨てるように言った。
「……馬鹿者が」
その声は、まだ、ぶっきらぼうだった。だが、そこにはもう、侮蔑の色はなかった。
そこにあったのは、どうしようもない弟子を前にした、師匠の呆れと、そして、かすかな慈しみだった。
「そんな土は、な。一度、冬の寒気に完全に晒して、締め直すんだ」
「え……?」
「そして春になったら、そこにレンゲでも植えて、緑肥として、すき込む。土そのものを一から作り直すんだよ。……一年、棒に振る覚悟でな」
それは、あまりにも厳しく、しかし、あまりにも的確な、最初の処方箋だった。
賢者の最後の問いに、賢者を超える大賢者が、ようやく、その重い口を開いた。
二人の、長く冷たい戦いが、終わりを告げた瞬間だった。




