第73話 ただ一人の来訪者
賢者の仕掛けた「陽動作戦」は、岩田茂の心に、確かな、さざ波を立てていた。
あの、素人集団の不可解な行動。敗北の痕跡をあえて晒し続ける、奇妙な「花壇」。そして、道具を我が子のように慈しむ、真摯な姿。
彼の長年培ってきた、凝り固まった価値観が、わずかに揺らいでいた。
(あいつらは一体、何を考えている……?)
岩田は、縁側から農園の様子を監視するでもなく、ただ、ぼんやりと眺める時間が増えていた。
その日の昼下がりだった。
彼の、その静かな時間に、闖入者が現れた。
農園の方から、一人の男が、まっすぐに自分の家へと向かってくる。
田中修一だ。
(……フン。また、あの腰抜けか)
岩田は、忌々しげに舌打ちをした。
この前、何も言えずに尻尾を巻いて逃げ帰っていった、あの男。今頃、何の用だ。また、泣き言でも言いに来たのか。
岩田は、腕を組み、縁側にふんぞり返って、その惨めな来訪者を待ち構えた。
修一は、岩田の家の庭先で、ぴたり、と足を止めた。
その顔に、以前のような怯えの色はない。だが、かといって、挑戦的な色もなかった。ただ、静かで、凪いだ湖面のような表情をしている。
その手には、小さな布の袋が、大切そうに握られていた。
「なんだ、腰抜け。また来たのか」
岩田は、威圧するように、低い声で言った。
「今度は何の用だ。わしに何か言いたいことでもあるのか」
彼は、修一が、どもりながら、言い訳でも始めるのだろうと、高を括っていた。
だが、修一の取った行動は、彼の予想を完全に裏切るものだった。
修一は、岩田の侮蔑の言葉に、何も答えなかった。
彼は、ただ、静かに岩田の目の前まで歩み寄ると、その場でゆっくりと地面に膝をついたのだ。
そして、持っていた布の袋を、まるで神前に供物を捧げるかのように、両手で恭しく、岩田の前に差し出した。
「……!」
その、あまりにも意外な行動に、岩田は言葉を失った。
なんだ、こいつは。降伏のつもりか。謝罪のつもりか。
だが、修一の目には卑屈な色はない。そこにあるのは、ただ、真摯な、敬意の色だけだった。
布の袋の口が開かれている。
中に入っていたのは、黒く変色し、氷に焼かれて、完全に生命の光を失ってしまった、あの、畑の死んだ土だった。
長い、長い、沈黙が流れた。
冷たい初冬の風が、二人の間を吹き抜けていく。
やがて、その沈黙を破ったのは、地面に膝をついたままの修一だった。
その声は震えてはいなかった。ただ、ひたすらに静かで、そして真剣だった。
「岩田さん……」
賢者の最後のクエストが、今、始まろうとしていた。
それは、力と力のぶつかり合いではない。
ただ、ひたすらに、相手への敬意と、そして自らの無知を認めることから始まる、あまりにも静かな戦いだった。




