表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
賢者の城は六畳間  作者: かわさきはっく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

66/80

第66話 再起動(リブート)

 朝日が完全に部屋を照らし出す頃。

 田中修一は、まず、風呂場のドアを開けた。何週間も、まともに浴びていなかった熱いシャワーが、彼にこびりついた心と体の両方の垢を洗い流していく。鏡に向かい、伸び放題だった無精髭を丁寧に剃り落とした。鏡の中に現れたのは、まだ、やつれてはいるものの、確かに数週間前の、あの「管理人さん」の顔だった。

 彼は、部屋の隅に、脱皮殻のように脱ぎ捨てられていた黒いジャージには、もう目もくれなかった。クローゼットの奥から、きちんと洗濯された、襟付きのシャツとチノパンを引っ張り出す。


 彼が、その、小ざっぱりとした姿でリビングへ出ると、台所に立っていた、母・春子が、息を飲んで振り返った。その瞳が、驚きと安堵に、みるみるうちに潤んでいく。

 彼女は何も聞かなかった。ただ黙って頷くと、慣れた手つきで朝食の準備を始めた。

 食卓に並んだのは、湯気の立つ白いご飯と、豆腐とワカメの味噌汁。そして、きれいな焼き色のついた、卵焼き。

「……いただきます」

 修一は、深々と頭を下げて箸を取った。

 口に含んだ卵焼きは、ほんのりと甘く、そして温かかった。

「母さん」

 彼は、ご飯をゆっくりと咀嚼しながら言った。

「ごめん。……心配かけた」

 春子は、顔を、くしゃりと歪ませると、首を横に振った。

「……いいんだよ」

 彼女は、涙声になるのを必死でこらえているようだった。

「お帰り、修一」

 その、たった一言が、彼の空っぽだった心に、じんわりと染み渡っていった。


 食事を終え、修一は、自室に戻ると、机の上に並べて置かれた二冊のノートを見つめた。

 凛の、置き土産である青いバインダー。そして、自分の攻略マニュアル。

 彼は、まず、凛のバインダーを開き、参加者名簿のページに視線を落とした。そこに書かれた、一番上の名前と電話番号。

(……凛さんに、連絡する前に)

 彼は、心の中で呟いた。

(俺が、やるべきことは別にある)

 凛との関係は、あまりにも深くこじれてしまった。それを修復するには、まず、外堀を埋めなければならない。彼女に合わせる顔を作るためには、まず、自分が壊してしまった、他の大切なものを取り戻さなければ。

 彼は、参加者名簿の中から、渡辺さんの名前を探し出すと、自分のスマートフォンを手に取った。

 その指には、もう迷いはなかった。


 数回の呼び出し音の後、電話の向こうから、渡辺さんのぶっきらぼうな声がした。

『……もしもし』

「あ……もしもし、渡辺さん。田中です」

『…………』

 電話の向こうで、渡辺さんが息を飲む気配がした。長い沈黙。それは、彼の戸惑いと、かすかな怒りを示していた。

『……先生か。どうしたんだい、今頃。もう、畑のことなんざ、忘れたのかと思ってたぜ』

 その棘のある言葉に、修一は怯まなかった。

 彼は、深呼吸を一つすると、はっきりと告げた。

「先日は、本当に申し訳ありませんでした」

 彼は、電話越しに、深く、頭を下げていた。

「皆さんにも、直接、お詫びがしたいんです。そして……もし、まだ間に合うのなら。皆さんに、どうしても聞いてほしい話があります」

『…………』

 再びの沈黙。

 修一は、ただ、じっと、相手の言葉を待った。

 やがて、電話の向こうから、大きな、大きな、ため息が聞こえてきた。


『……分かったよ』

 その声は、まだ硬かった。だが、拒絶の色は、なかった。

『一度だけだそ。話を聞いてやる。みんなに声をかけてみる』

「! ありがとうございます……!」

『勘違いするな。これで許したわけじゃねえからな』

 そう、吐き捨てるように言うと、電話は一方的に切れた。


 修一は、通話が切れたスマートフォンを強く握りしめた。

 再起動リブートの最初のコマンドは入力された。

 賢者の最後の戦いが、今、始まったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ