第66話 再起動(リブート)
朝日が完全に部屋を照らし出す頃。
田中修一は、まず、風呂場のドアを開けた。何週間も、まともに浴びていなかった熱いシャワーが、彼にこびりついた心と体の両方の垢を洗い流していく。鏡に向かい、伸び放題だった無精髭を丁寧に剃り落とした。鏡の中に現れたのは、まだ、やつれてはいるものの、確かに数週間前の、あの「管理人さん」の顔だった。
彼は、部屋の隅に、脱皮殻のように脱ぎ捨てられていた黒いジャージには、もう目もくれなかった。クローゼットの奥から、きちんと洗濯された、襟付きのシャツとチノパンを引っ張り出す。
彼が、その、小ざっぱりとした姿でリビングへ出ると、台所に立っていた、母・春子が、息を飲んで振り返った。その瞳が、驚きと安堵に、みるみるうちに潤んでいく。
彼女は何も聞かなかった。ただ黙って頷くと、慣れた手つきで朝食の準備を始めた。
食卓に並んだのは、湯気の立つ白いご飯と、豆腐とワカメの味噌汁。そして、きれいな焼き色のついた、卵焼き。
「……いただきます」
修一は、深々と頭を下げて箸を取った。
口に含んだ卵焼きは、ほんのりと甘く、そして温かかった。
「母さん」
彼は、ご飯をゆっくりと咀嚼しながら言った。
「ごめん。……心配かけた」
春子は、顔を、くしゃりと歪ませると、首を横に振った。
「……いいんだよ」
彼女は、涙声になるのを必死でこらえているようだった。
「お帰り、修一」
その、たった一言が、彼の空っぽだった心に、じんわりと染み渡っていった。
食事を終え、修一は、自室に戻ると、机の上に並べて置かれた二冊のノートを見つめた。
凛の、置き土産である青いバインダー。そして、自分の攻略マニュアル。
彼は、まず、凛のバインダーを開き、参加者名簿のページに視線を落とした。そこに書かれた、一番上の名前と電話番号。
(……凛さんに、連絡する前に)
彼は、心の中で呟いた。
(俺が、やるべきことは別にある)
凛との関係は、あまりにも深くこじれてしまった。それを修復するには、まず、外堀を埋めなければならない。彼女に合わせる顔を作るためには、まず、自分が壊してしまった、他の大切なものを取り戻さなければ。
彼は、参加者名簿の中から、渡辺さんの名前を探し出すと、自分のスマートフォンを手に取った。
その指には、もう迷いはなかった。
数回の呼び出し音の後、電話の向こうから、渡辺さんのぶっきらぼうな声がした。
『……もしもし』
「あ……もしもし、渡辺さん。田中です」
『…………』
電話の向こうで、渡辺さんが息を飲む気配がした。長い沈黙。それは、彼の戸惑いと、かすかな怒りを示していた。
『……先生か。どうしたんだい、今頃。もう、畑のことなんざ、忘れたのかと思ってたぜ』
その棘のある言葉に、修一は怯まなかった。
彼は、深呼吸を一つすると、はっきりと告げた。
「先日は、本当に申し訳ありませんでした」
彼は、電話越しに、深く、頭を下げていた。
「皆さんにも、直接、お詫びがしたいんです。そして……もし、まだ間に合うのなら。皆さんに、どうしても聞いてほしい話があります」
『…………』
再びの沈黙。
修一は、ただ、じっと、相手の言葉を待った。
やがて、電話の向こうから、大きな、大きな、ため息が聞こえてきた。
『……分かったよ』
その声は、まだ硬かった。だが、拒絶の色は、なかった。
『一度だけだそ。話を聞いてやる。みんなに声をかけてみる』
「! ありがとうございます……!」
『勘違いするな。これで許したわけじゃねえからな』
そう、吐き捨てるように言うと、電話は一方的に切れた。
修一は、通話が切れたスマートフォンを強く握りしめた。
再起動の最初のコマンドは入力された。
賢者の最後の戦いが、今、始まったのだ。




