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賢者の城は六畳間  作者: かわさきはっく


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第64話 凛の置き土産

 自分の中に、まだ「誰かを守りたい」という、か細い、しかし、確かな意志が残っている。

 その発見は、田中修一の、暗闇に閉ざされた心に小さな窓を開けた。そこから、かすかな夜明け前の光が差し込んでくる。

 だが、意志だけでは、どうにもならない。

 一度、すべてに敗北したのだ。具体的に、どうすれば、この状況をひっくり返すことができるというのか。

(もう一度、整理してみよう……)

 修一は、賢者の思考を取り戻そうと、机に向かった。まずは、情報の整理からだ。彼は、あの熱狂と絶望の記録である、自分の『攻略マニュアル』を探して、乱雑になった机の上を、かき分けた。


 その時、彼の指が、一冊の見慣れないファイルに触れた。

 市の名前が入った、何の変哲もない、事務用の青いバインダー。

(……なんだ、これ?)

 彼は、そのファイルを手に取った。ずしりとした重み。表紙をめくった瞬間、彼は息を飲んだ。

『にこにこふれあいコミュニティ農園計画』。

 佐々木凛が、最初に彼の元を訪れた日。そして彼が、最後に彼女を拒絶した日。その、どちらの日にも、彼女が大切そうに胸に抱えていた、あの、企画書ファイルだった。

 いつの間に、ここに……。おそらく、最後に彼女が訪ねてきた時、混乱の中で落としていったのだろう。

 修一は、それを忌まわしい記憶の残骸として、ゴミ箱に捨てようとした。だが、彼の指は動かなかった。彼の中に芽生えた新しい意志が、それを許さなかった。

 彼は、おそるおそる、その、凛の「置き土産」のページをめくった。


 最初の数ページは市の予算や、スケジュールが書かれた、無機質な公的書類だった。

 だが、その後ろに挟まれていたもの。

 それこそが、彼女の魂の記録だった。


 そこには凛の几帳面な、しかし、どこか情熱的な手書きの文字で、びっしりとメモが書き込まれていた。

『子供たちが、土に触れる場所を作る』

『お年寄りの孤独をなくすための、笑顔が集まる畑に』

『採れた野菜で、収穫祭をやるのが夢!』

 彼女の純粋で、まっすぐな夢の言葉が、そこには並んでいた。


 そして修一は、次のページをめくり、言葉を失った。

 そこには、彼の活動の記録が克明に綴られていたのだ。


『十月×日:台風対策』

『田中さんの指示で、畑に排水用の溝を掘る。最初は意味が分からなかったけど、信じてよかった。週末の台風から、畑を完璧に守ってくれた。田中さんの先見の明。まるで嵐が来るのが分かっていたみたい。すごい!』


『十一月×日:種まき祭』

『田中さんが、全員分の作業マニュアル(設計図)を用意してくれた。誰にでも分かる完璧な内容。これのおかげで、初めての人も楽しんで作業ができた。あの人は本当にすごいリーダーだ。私には、もったいないくらい』


 メモの一つ一つ。言葉の端々から、彼への絶対的な信頼と、尊敬の念が溢れ出ていた。

 修一は、震える指でページをめくり続けた。

 彼の壊れたコンパスが指し示していた、彼女の失望や焦燥といった、黒い感情。

 だが、ここに記録されているのは、そんなものではなかった。

 彼の、ささやかな功績を、まるで自分のことのように喜び、誇らしげに綴る、一人の若者の、あまりにも、まっすぐな光の感情だった。


 修一は、そのファイルを、胸に強く抱きしめた。

 俺は勘違いをしていた。

 俺は独りよがりの絶望に溺れていただけだった。

 俺たちのやってきたことは、決して無駄なんかじゃなかった。失敗だけじゃ、なかったんだ。

 凛の、希望に満ちた瞳を通して、彼は初めて、自分たちが、共に築き上げてきたものの本当の価値を、客観的に見つめ直すことができた。


 彼は自分の『攻略マニュアル』を机の上に取り出すと、凛の、その、置き土産の隣に、そっと並べた。

 二冊のノート。

 それは、一度は壊れてしまった彼らの、パートナーシップの証だった。

 そして、これから始まる逆転劇のための、最強の武器でもあった。

 賢者は今、再起のための、最後の、そして、最も重要なピースを手に入れた。

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