第63話 壊れたコンパスの指す先
ゲーム仲間からの思いがけないメッセージ。
そして、母・春子が、涙ながらに告白してくれた、偽りのない愛情。
二つの温かい光は、田中修一が、自ら閉じこもっていた暗闇の檻の分厚い壁に、確かに、小さな風穴を開けていた。
その日の夜。彼は重い体を引きずるように洗面所へと向かった。ただ、顔を洗うだけのつもりだった。冷たい水で、少しでも、この、まとわりつくような絶望感を洗い流したかったのだ。
水しぶきをタオルで拭い、ふと、顔を上げた時。鏡の中に映った自分の姿に、彼は息を飲んだ。それはまるで、難破船から命からがら生還した漂流者のようだった。
(……ひどい顔だ)
これが、今の自分。
仲間を裏切り、友を傷つけ、母親を悲しませた、愚かな男の末路。
彼は鏡に映る、その惨めな自分自身から、目をそらさなかった。
そして、おそるおそる試みた。
この、どうしようもない、抜け殻のようになった自分自身に、あの能力を使ってみることを。
最後に試した時は、何も見えなかった。だが、今は、どうだ。
彼は鏡の中の自分の瞳を、まっすぐに見つめ、意識を集中させた。
途端に、彼の脳内に、嵐が吹き荒れた。
壊れたコンパスは、案の条、制御不能のまま、負の情報だけを叩きつけてくる。
【失敗】
【後悔】
【臆病】
【無価値】
【孤独】
【欺瞞】
【停滞】
【滅亡】
彼の自己評価そのものが、黒い呪いの言葉となって、彼の精神を容赦なく鞭打った。
(……ああ、そうだよな。やっぱり俺は……)
彼が、また、暗い自己否定の渦に飲み込まれそうになった、その瞬間だった。
黒い嵐の中心に。
ノイズの向こう側に、まるで遠い星の光のように、これまで見えたことのなかった、一つの、微かな、しかし、凛とした光が点滅しているのに、気がついた。
彼は、その光に、必死で意識を集中させた。
そして、その光が形作る言葉を読み取った。
【根源的ポテンシャル:誰かを、守りたい】
「……え?」
修一は、思わず声を漏らした。
誰かを守りたい? 俺が?
誰を。
脳裏に、いくつもの顔が浮かんだ。
『シュウさんがいないと、ダメなんだ』と、言ってくれた、ゲームの仲間たち。
『あんたに、元気で、生きていてほしい』と、泣いていた、母・春子。
そして―――
『田中さんがいないと、ダメなんです!』と、叫んでいた、佐々木凛の、あの必死な顔。
そうだ。
守りたい。
彼らを。彼女を。
俺の弱さのせいで傷つけてしまった、あの人たちを。
俺が壊してしまった、あの温かい場所を。
もう一度、この手で取り戻したい。守り抜きたい。
それは、後悔でも、自己否定でもない。
彼の心の一番奥深く。絶望の瓦礫の下で、まだ、かろうじて息をしていた、たった一つの純粋な願いだった。
彼は改めて、鏡の中の自分を見た。
壊れたコンパスは、相変わらず、無数の負の方向を指し示している。
だが、その、めちゃくちゃに揺れ動く針の中心で、たった一つだけ、ぶれることのない、確かな方角が示されていた。
【誰かを、守りたい】
その、かすかな光が、彼の新しい北極星。
彼のコンパスは壊れたのではない。
あまりにも強い、自己否定という磁場の嵐に囚われていただけなのだ。
そして今、その嵐の中から、新しい進むべき道を指し示し始めていた。
修一は、鏡の中の情けない自分に静かに告げた。
(……行こう)
まだ、戦える。
まだ、終わっていない。
賢者の城は、まだ、陥落してはいなかった。
夜明けは、まだ、遠い。
だが、進むべき方角は確かに定まった。




