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賢者の城は六畳間  作者: かわさきはっく


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第62話 母の告白

 画面に並んだ、温かい言葉の数々。

 田中修一は、どれくらいの時間、そのメッセージを、ただ呆然と、眺めていただろうか。

 彼が捨てたはずの世界。

 その世界は、まだ彼のことを覚えていてくれた。彼の帰りを待っていてくれた。

 その、あまりにも意外な事実が、彼の凍りついた心の分厚い氷を、ほんの少しだけ軋ませた。


 不意に腹の奥が、きゅう、と鳴った。

 空腹。

 何日も忘れていた、その、生きるための基本的な感覚。

 彼は、まるで夢遊病者のように椅子から立ち上がると、自室のドアをゆっくりと開けた。

 台所へ、何か飲み物を取りに行こう。

 ただ、それだけの単純な思考だった。


 リビングへ出ると、ソファに座って、ぼんやりとテレビを眺めていた、母・春子が、息子の姿に気づき、びくりと、その小さな肩を震わせた。

 修一は彼女の顔を、まともに見ることができなかった。

 彼の壊れた能力が、また、彼女の失望の感情を読み取ってしまうのが、怖かったからだ。

 彼は母親に背を向けたまま冷蔵庫を開け、麦茶のボトルを取り出す。

 その背中に、春子の静かな声がかけられた。


「……修一」

 その声は震えていた。

「お腹、すいたのかい……? 何か、温かいものでも作ろうか」

 修一は何も答えられない。ただ、首を小さく、横に振るだけだった。

 そんな、息子の、か細い拒絶に、春子の心の堰が切れた。

「……母さんが、いけなかったんだよ」

 ぽつり、と、彼女の口から後悔の言葉が、こぼれ落ちた。

「ごめんね……。本当に、ごめん……」

 修一は振り返らない。だが、彼の耳は、その、か細い声を、一言も聞き漏らすまいと、そばだてていた。


「あの時、私が農園へ行くように、あんたの背中を押したりしなければ……。あんたが、あんなに楽しそうに土をいじっているのを見て、母さん、嬉しくなっちゃって……。つい調子に乗って……」

 その声は、涙で濡れていた。

「あんたが、辛い思いをしてるのに……。何も、気づいてやれなくて……。本当に、ダメな母親だね……」


 修一は、ただ黙って、その言葉を聞いていた。

 違う。

 違うんだ、母さん。

 悪いのは全部、俺なんだ。

 母さんの優しさに応えられなかった俺の弱さが、すべてを壊したんだ。

 そう、叫びたかった。だが、彼の喉からは声が出ない。


 春子は、涙を手の甲で拭うと、震える声で続けた。

「だからね、修一。もう、いいんだよ」

「畑のことなんて、もう、どうだっていい。成功したって、失敗したって、そんなこと、本当に、どうだっていいんだよ」

 彼女は、ゆっくり立ち上がると、息子の骨ばった背中に、そっと近づいた。

 そして、その背中に向かって、彼女の、たった一つの、本当の願いを告げた。


「母さんは、ただ……。あんたに元気で、生きていてほしいだけなんだから」


 その、あまりにも無条件で、絶対的な愛情。

 それは、修一の壊れたコンパスが、これまで指し示してきた「失望」や「後悔」といった、負の感情とは全く違う、温かい光だった。

 その光が、彼の心の最も固く、冷たい部分を、ゆっくりと溶かしていく。

 修一の、乾ききっていた目から、ぽろり、と、一筋の熱いものが、こぼれ落ちた。

 それは、何日も、何週間も、彼の心に溜まり続けていた、悲しみと、後悔の塊だった。


 彼は振り返らない。母に、この情けない顔を見せるわけには、いかなかった。

 ただ、その場で、小さな子供のように、声を殺して泣き続けた。

 春子は何も言わず、ただ、息子の背中が落ち着くまで、静かに、そこに立っていた。

 やがて、彼女は台所へ行くと、小さな土鍋に、ご飯とお茶を入れた。

 差し出された、お茶漬けを、修一は、無言で受け取った。

 そして、一口、すする。

 温かい。

 そして、しょっぱい。

 それは、お茶の味と、彼の、涙の味が混じり合った、あまりにも優しい味だった。

 彼が、生きることを再び思い出した瞬間だった。

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