第59話 最後の言葉
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。
田中修一は、光も、音も、時間さえもが溶けてしまったかのような、六畳間の暗闇の底で、ただ息を潜めていた。
壊れたコンパス(能力)は容赦がない。
彼が愛したはずのベランダの植物を思えば、その枯れ果てた未来が視え、ドアの向こうにいるであろう母を思えば、その失望と悲嘆の感情が、黒い毒のように彼の心に流れ込んでくる。
彼は、もはや、安全な場所など、どこにもない、完璧な地獄の檻に囚われていた。
その静寂を破るものが現れた。
コン、コン。
玄関のドアがノックされる。それは、母の遠慮がちなものではない。もっと強く、はっきりとした意志のこもった音だった。
修一の心臓が凍りついた。
彼女だ。
佐々木凛だ。
「田中さん!」
ドアの向こうから、凛の必死な声がした。
「田中さん! いらっしゃるのは分かっています! お願いです、ドアを開けてください!」
修一は、ベッドの上で、体をエビのように丸めた。耳を塞ぐ。聞きたくない。もう、あの顔を見たくない。
「先日のこと、謝ります! 私、田中さんの気持ちも考えずに、一方的に……!」
違う。謝るべきは俺の方だ。
「でも、このままじゃ、ダメです! 農園のこと、これからどうするのか、ちゃんと話をしましょう!」
もう終わったんだ。
「田中さんがいないと、ダメなんです! みんな待ってます! もう一度、やり直しましょうよ!」
やめろ。
やめてくれ。
そのまっすぐな優しさが、彼の腐りかけた心を、何よりも深くえぐる。
俺は、お前の、その信頼に応えられなかった。お前の夢を壊した。お前たちの輪の中にいる資格なんてないんだ。
彼は、自分は汚れた有害な存在なのだと信じていた。だから彼女をこれ以上、自分の毒に感染させてはならない。
彼女を守るためには、彼女を突き放すしかないのだ。
修一は最後の、なけなしの力を振り絞った。
彼はベッドから転がり落ちるように床を這い、ドアに向かって、喉の奥から絞り出すように叫んだ。
「もう、来ないでくれッ!!」
その、獣の呻き声のような拒絶の言葉に、ドアの向こうの凛が、息を飲む気配がした。
「俺のことは、もう、放っておいてくれ!」
「た、田中さん……?」
「全部、終わったんだよ!!」
修一は叫んだ。
「俺たちの、やってたことなんて全部、ただの、ままごとだったんだ! 分かったか! だから、もう、ここへは来るな!」
それは、彼が、彼女に吐きつける、最も残酷な言葉だった。
自分たちが、共に育んできた、あの温かい時間を、すべて彼自身の手で汚し、否定する言葉。
ドアの向こうの声が止んだ。
修一は、荒い息をつきながら、耳を澄ます。
ひっく、と、彼女が息を引きつらせる音が、かすかに聞こえた。
そして、数秒の、永遠のように長い沈黙。
やがて、遠ざかっていく、小さな足音。
階段を、一段、一段、力なく下りていく、その音が、やがて聞こえなくなった時。
修一は理解した。
彼は、今、確かに、最後の繋がりを自らの手で断ち切ったのだ、と。
もう誰も、この城の門を叩く者はいない。
彼は望み通り、完全な孤独を手に入れた。
その、あまりにも広大で、冷たい孤独の荒野の真ん中で、彼は、ただ一人、うずくまっていた。
もう、何も残ってはいなかった。




