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賢者の城は六畳間  作者: かわさきはっく


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58/80

第58話 壊れたコンパス

 田中修一が、自らを六畳間の城に幽閉してから、三日が過ぎた。

 時間の感覚は、とうになくなっていた。部屋は昼も夜も、等しく暗い。空腹も喉の渇きも、感じない。彼は、ただ、ベッドの上で体育座りをしたまま、虚空を見つめて、時が過ぎるのを待っていた。

 いや、待っているという感覚さえも、麻痺していたのかもしれない。彼は、ただ、存在しているだけだった。


 時折、ドアの向こうから、母・春子の気配がした。

 コン、コン、と、控えめなノックの音。そして、食器の置かれる、かすかな音。食事をドアの前に置いてくれているのだ。

 だが、修一は、それを取りに行くことさえしなかった。動く気力が湧いてこない。生きるための最低限の欲求さえもが枯れ果てていた。


 その日の午後。

 カーテンの、ほんのわずかな隙間から、西日の赤い光が一筋、部屋の中に差し込んだ。その光が、彼の視界の隅を照らし出す。

 ベランダだ。

 彼が、かつて、愛情を注ぎ、仲間たちとの会話のきっかけにもなった、あの小さな菜園。

 彼は、まるで、何かに操られるように、ゆっくりと立ち上がった。そして、カーテンを数センチだけ開けて、外を見た。


 そこには、彼の世話を失った、植物たちの姿があった。

 少しだけ、葉の色が薄くなっている気がする。土も乾ききっていた。

 彼が、その、わずかに元気のないハーブの鉢に、ぼんやりと意識を向けた、その瞬間だった。

 彼の壊れかけた能力が、勝手に発動した。


【警告:枯死ポテンシャル:極大】

【原因:水分および栄養素の致命的不足】

【予測ビジョン:五日後、すべての葉は茶色く変色し、完全に乾燥。生命活動、停止】


「……あ」

 声にならない、声が漏れた。

 彼は慌てて、隣のミニトマトのプランターに視線を移す。


【警告:病害ポテンシャル:高】

【原因:抵抗力の低下による、うどんこ病の発生】

【予測ビジョン:葉の表面が、白い粉を吹いたように、カビに覆われる。やがて、光合成が不可能となり、緩やかに、枯死へと向かう】


 見える。

 見えてしまう。

 すべての植物たちの、死へと向かう未来の姿だけが。

 かつて、輝かしい成長の可能性を彼に示してくれた能力は、今や、あらゆる命の最も惨めな終わりの姿を、彼の脳裏に強制的に映し出す、呪いの映写機へと成り果てていた。

 彼はカーテンを乱暴に閉め切った。


 ドン、と、玄関のドアの向こうで、何かが倒れるような、鈍い音がした。

 おそらく母が、昨日、置いてくれた食事のトレーを、今日の新しいトレーと交換しようとして、誤って倒してしまったのだろう。

「……ごめんなさい」

 ドアの向こうから、春子の、か細い謝罪の声が聞こえる。

 その声を聞いた途端、またしても、修一の能力が暴走した。

 彼はドアの向こうにいる、母の心を「視て」しまった。


【対象:田中 春子】

【現在の感情:深い失望、悲嘆、そして、自分自身への、後悔】

【思考ノイズ:「また、あの子は、昔に戻ってしまった……」「私が、あの時、農園へ行くように、背中を押したりしなければ……」「私の、育て方が、間違っていたんだろうか……」「この先、この子は、どうなってしまうんだろう……」】


 かつて、彼を奮い立たせてくれたはずの、母の温かいポテンシャル。

『息子の元気な姿が見たい』

 その願いは、今や絶望的な『失望』と『後悔』の、黒い感情に塗りつぶされていた。

 俺の存在そのものが、母を苦しめている。

 その事実が、彼の最後の、なけなしの心の支えを完全にへし折った。


 修一は耳を塞ぎ、その場にうずくまった。

 もう、何も見たくない。何も聞きたくない。

 彼を賢者の城から外の世界へと導いてくれた、不思議なコンパス。

 それは今や、完全に壊れてしまっていた。

 針は狂ったように、ぐるぐると回り、ただ、絶望と破滅の方向だけを指し示し続けている。

 そのコンパスが指し示す先から、彼は、もう、逃れる術を持たなかった。

 彼の心は自らの能力によって、完璧な地獄の檻へと、閉じ込められてしまったのだ。

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