第56話 賢者の逃亡
「……俺の、せいです」
田中修一の、その、魂が抜け殻になったかのような、か細い告白。
それは佐々木凛が、必死に探していた「答え」ではなかった。彼女が求めていたのは、理不尽な現実を共に乗り越えるための、仲間からの力強い言葉だったはずだ。
長い、長い、沈黙だった。
佐々木凛は、目の前で、すべての罪を背負い、抜け殻のように立ち尽くす修一の背中を見つめながら、必死で、かけるべき言葉を探した。そして、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。
「……これは事故です。 誰のせいでもなく…… 寒波が異常だったんです。それに、どこからか来た、あの水だって……」
「やめてください」
修一は、凛の必死の慰めを冷たく遮った。
その声は、もはや、何の感情も含んでいなかった。
「……もう、やめてください」
今の彼にとって、凛の優しさは刃物と同じだった。
それは彼の、惨めで無力で役立たずだという自己評価を、ただ肯定するだけの残酷な同情にしか聞こえなかった。
(ああ、この子は優しいからな)
(失敗したダメな俺を必死で慰めようとしてくれているんだ)
その憐れみが、彼のずたずたになったプライドをさらに深く切り裂いた。
「田中さん……」
凛が、何かを言いかけ、そっと彼の腕に手を伸ばす。
その指先が、触れるか触れないか、その刹那。
「!」
修一は、まるで焼けた鉄でも押し付けられたかのように、激しく、その手を振り払っていた。
凛が、怯えたように息を飲む。
修一は、彼女に背を向けた。
もう、この顔を見られたくなかった。この惨めな男の顔を。
そして彼は最後に、最も残酷な言葉を告げた。
「だから言ったはずだ」
その声は、凍てついた畑の氷のように冷え切っていた。
「俺には無理だったんだ」
それは、数カ月前、彼女の熱意を最初に拒絶した時と、全く同じ言葉。
つまり、この数ヶ月間の彼の成長も、仲間との絆も、すべては無意味だったのだという、彼自身による全否定だった。
「待って……待ってください、田中さん!」
凛の悲痛な声が、背中に突き刺さる。
だが修一は、もう振り返らなかった。
彼は歩き出した。一歩、また一歩と、あの夢の跡地から遠ざかっていく。
彼の足は、土を、草を、アスファルトを、踏みしめているはずなのに、まるで現実感がない。泥の中を歩いているようだった。
道端に咲く、色とりどりの秋の花。
公園で楽しそうに遊ぶ、子供たちの声。
かつての彼なら、決して気づくことすらなかったであろう、世界のささやかな彩り。
それらが、今の彼には、ただひどく、うるさくて、疎ましいだけのノイズにしか感じられなかった。
やがて、見慣れた古いアパートが目の前に現れた。
彼は、その、くすんだ外壁を見上げる。
賢者の城。
なんと馬鹿馬鹿しい思い上がりだったことか。
ここは城などではない。最初から、そうだった。
ここはただの臆病な男が、現実から逃げ込むための、六畳間の、小さな、小さな、檻なのだ。
修一は、幽鬼のように、アパートの階段を上っていく。
そして、201号室のドアを開け、中に入り、ゆっくりとドアを閉めた。
カチャリ。
無機質な、鍵の閉まる音。
それは、彼が、再び、世界とのすべての関係を断ち切った合図だった。
賢者の、あまりにも惨めな逃亡劇は、こうして、その幕を下ろした。




