第55話 誰のせい
朝日が高くなるにつれて、畑を覆っていた薄氷は、ゆっくりと、その姿を水へと変えていった。
だが、それは、再生の始まりなどではなかった。氷が溶けた後に現れたのは、水分を吸って、黒く、ぐにゃりと腐り始めた、双葉たちの無残な死骸だった。
きらきらと輝いていた悲劇の美しさは消え去り、そこには、ただ、どうしようもない汚れた現実だけが横たわっていた。
佐々木凛は、どれくらいの時間、その場に膝をついていただろうか。
彼女の頭の中を様々なものが駆け巡っていた。
市の予算。これから上司に提出しなければならない、膨大な量の失敗報告書。自分の来年度の評価。そんな、社会人としての現実的な計算。
そして、それ以上に彼女の心を支配していたのは、もっと、どうしようもない喪失感だった。
渡辺さん夫妻の楽しそうな笑顔。佐藤さん親子のはしゃぎ声。この場所で確かに生まれ、育ち始めていた温かいコミュニティ。
自分のたった一つの大切な夢。
そのすべてが、この冷たい泥の中に溶けて消えてしまった。
やがて彼女は、幽鬼のような、おぼつかない足取りで立ち上がった。
そして少し離れた場所で、まるで石像のように動かずに立ち尽くしている、田中修一の方へと向き直った。
怒りは無かった。
誰かを責めたいという気持ちさえ、もはや湧いてこなかった。
ただ純粋な、魂からの問いかけだけが、そこにあった。
「……どうして」
凛の、かすれた声が、しん、と静まり返った畑に響いた。
「あんなに、うまくいっていたのに。台風だって乗り越えられたのに。どうして、こんなことに、なってしまったんでしょうか……」
彼女は答えを求めていた。
この、あまりにも理不尽な結末に対する、納得のいく説明を。
そして、その答えを知っているのは、この場所で、ただ一人。自分を導いてくれた賢者である、この男しかいないはずだった。
彼女の悲痛な問いかけに、修一の肩が、びくりと大きく震えた。
彼は、ゆっくりと顔を上げる。その顔は、まるで生気というものをすべて吸い取られてしまったかのように、真っ白だった。
彼の脳裏に、この数週間の出来事が、走馬灯のように駆け巡る。
―――岩田茂の悪意に満ちた妨害。
―――それに対し、恐怖で何もできず、ただ沈黙することしかできなかった自分。
―――凛の真摯な問いかけに背を向け、仲間たちとの間に亀裂を作ってしまった自分。
―――焦りから、能力の副作用に心を蝕まれ、仲間たちを高圧的に傷つけた自分。
―――そして昨夜、パニックに陥り、皆をヒステリックに振り回した自分。
そうだ。
何もかも。
すべての歯車が狂い始めたのは。
俺が弱かったからだ。俺が臆病だったからだ。俺が愚かだったからだ。
岩田茂の妨害も、季節外れの寒波も、ただのきっかけに過ぎない。
この惨劇を生み出した本当の犯人。
それは、他の誰でもない。
「……俺の、せいです」
修一の口から、か細い、しかし、はっきりとした声が漏れた。
「え……?」
凛が、戸惑いの表情を浮かべる。
修一は、自嘲の笑みを唇に浮かべた。
「俺が……リーダーなんて、柄じゃなかったんだ。少しうまくいったからって、調子に乗って……。結局、何も分かっていなかった。何もできなかった……」
彼は、凛の目を、もう見ることができなかった。
「みんなの期待も、佐々木さんの夢も……。全部俺が壊しました。すみません……」
その、あまりにも絶対的で救いのない自己否定。
凛は、かけるべき言葉を見失ってしまった。
違う、あなたのせいじゃない。そう言ってあげたかった。だが、その言葉は、あまりにも軽く、空虚に響くだろう。
修一は、自分自身に判決を下してしまったのだ。
有罪。
そのたった一言が、二人の間に、これまでで最も深く、そして、冷たい溝を作り出していた。
畑に再び沈黙が戻る。
それは、もはや、誰のせいでもない、ただ、どうしようもない、敗北の沈黙だった。




