第53話 氷点下の絶望
夜が明けた。
田中修一は、ほとんど眠ることができなかった。うとうとしかけると、脳裏に黒く枯れ果てていく野菜たちの、おぞましいビジョンが映し出され、何度も飛び起きた。
部屋の空気は冷蔵庫の中のように、冷え切っていた。窓ガラスには、びっしりと、幾何学模様の霜が張り付いている。
予言は的中したのだ。
彼は震える手で、急いで着替えると、まだ薄暗い中、アパートを飛び出した。
コミュニティ農園へと続く道は、まるで、別世界だった。
路傍の雑草も、公園の鉄棒も、何もかもが、薄い、白い化粧を施され、朝日を浴びて、きらきらと、ダイヤモンドダストのように輝いている。それは、息を飲むほど幻想的で、美しい光景だった。
だが、その美しさが、かえって、修一の胸を不吉な予感で締め上げた。
畑に着くと、すでに佐々木凛と、渡辺さん夫妻が、呆然と立ち尽くしていた。
修一は、まず、自分たちが、昨夜、必死の思いで覆った、ブルーシートへと駆け寄った。
「……どうですか!?」
凛が、修一の姿に気づき、力なく頷く。
渡辺さんが、シートの端をゆっくりと、めくり上げた。
その下にあったホウレンソウの芽は、確かに霜の直撃を受けて、ぐったりと萎れてはいた。だが―――黒くは、なっていない。まだ、かろうじて緑色を保っている。
「……生きてる」
凛の、かすれた声。
「ああ……なんとか持ちこたえたみたいだ……」
渡辺さんの声も安堵に震えていた。
昨夜の無謀とも思えた修一の行動は、決して無駄ではなかったのだ。彼らの絶望的な状況の中に、ほんの、ひとすじの光が差した瞬間だった。
だが、その光は、次の瞬間、さらに深い闇に飲み込まれることになる。
「……あれは、なんだ?」
渡辺さんが、訝しげに声を上げた。
彼の視線の先。それは彼らが、人手と資材の不足で、シートを覆うのを諦めた、畑の低い区画だった。
そこだけが異様だった。
単なる霜ではない。朝日を浴びて、まるで、巨大なガラス板のように、きらきらと光を反射している。
「―――氷?」
凛が、信じられないというように呟いた。
修一は、吸い寄せられるように、その氷の世界へと足を踏み入れた。
足元で、パキリ、と、薄氷が悲鳴を上げる。
間違いない。畑が凍っている。昨夜、雨など、一滴も降らなかったはずなのに。いったい、どこから、これほどの水が……。
氷は薄かった。だが、その下にある光景は地獄そのものだった。
生まれてきたばかりのダイコンや、ホウレンソウの双葉が、その、緑色の柔らかな姿のまま、氷の中に閉じ込められている。それは、まるで、琥珀の中に封じ込められた、古代の虫のようだった。
凛は、その場に膝から崩れ落ちた。
彼女は震える指先で、そっと、その氷に触れる。突き刺すような冷たさ。
もうダメだ。
誰の目にも、それは明らかだった。
水浸しになった根が、この氷点下の冷気で、完全に凍りついてしまっている。この小さな命たちに、未来は、もうない。
修一は、呆然と、その光景を見つめていた。
そして、ふと、気づく。この水が、どこから来たのか。畑の、わずかな傾斜。水の流れた痕跡。その先にあるのは―――あの古い用水路。そして岩田茂の家だ。
(……あの人の仕業か)
修一の心に、怒りよりも先に、深い絶望が広がった。
あれは授業だったのだ。
天からの試練(霜)と、大地からの試練(水)。
そして俺たちは、その、あまりにも厳しく、残酷な「最終試験」に落第したのだ。
【対象:コミュニティ農園B-3区画】
【状態:完全枯死。生命活動、完全停止】
【根源的ポテンシャル:ゼロ】
彼の能力が、無慈悲な現実を突きつける。
凛の、押し殺したような嗚咽が、氷点下の空気に白く溶けていった。
希望の畑は、今、美しい、氷の墓標へと姿を変えてしまった。
彼らの夢と努力のすべてを、その冷たい氷の下に閉ざして。




