表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
賢者の城は六畳間  作者: かわさきはっく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

52/80

第52話 岩田の最後の授業

 その夜、岩田茂は自宅の縁側で、じっと息を潜めていた。

 窓の外の空気は、刃物のように冷たく、澄み渡っている。長年の農家としての経験が彼に告げていた。今夜は霜が降りる。植物の、か細い命を容赦なく刈り取る、白い死神が舞い降りる夜だ、と。


 彼の視線の先、暗闇に覆われたコミュニティ農園で、いくつかの小さな光が、慌ただしく動き回っていた。懐中電灯の光だ。あの素人どもが、今頃になって、慌てふためいて、何かをやっているらしい。おそらく、あの、冴えない中年男の「予言」でも、あったのだろう。

「……付け焼き刃め」

 岩田は、吐き捨てるように呟いた。

 本物の農家は天気図を読み、風を読み、肌で空気の匂いを嗅ぎ分け、何日も前から、この寒さに備える。それを当日の夜になって、ビニールシート一枚で、どうにかしようなんて。愚の骨頂だった。


 だが、それだけでは足りない。

 彼らに、本当の土の厳しさを思い知らせるには。

 岩田は、ゆっくりと立ち上がった。そして、物置から、年季の入った長靴と、分厚い作業用の上着を取り出すと、闇の中へ足を踏み出した。

 彼が向かったのは農園ではない。その裏手にある小さな林だ。

 そこには、もはや、彼以外に、その存在を知る者もいないであろう、古い農業用の水路が眠っていた。かつて、この一帯の畑を豊かに潤していた、命の水路。


 その水路の中ほどに、それはあった。

 錆び付いて、蔦に覆われた、小さな鉄製のせき

 岩田は、その重いハンドルに、ごつごつとした両手をかけた。

(お前たちに、分かるか)

 彼は、歯を食いしばり、渾身の力を込めて、ハンドルを回し始める。ギィィィ、という、錆び付いた金属の耳障りな悲鳴が、夜の静寂を切り裂いた。

(本当の農家は、天から降ってくる雨や霜だけを見ていればいいわけじゃない)

 ずしり、と、ハンドルが大きく回った。

(この、大地の下を流れる水の声を聞き、それを治める術を知ってこそ、本物の農家だ)


 ゴポポ……という、くぐもった音と共に、堰の隙間から、黒い水が勢いよく、流れ出し始めた。その水は音もなく、闇に溶け込むように、農園の最も低い区画へと、静かに吸い寄せられていく。

 岩田は、それを、ただ、無表情で見つめていた。

 彼の中に罪悪感は、ない。

 これは破壊工作ではない。彼が、あの素人どもに与える、最後の「授業」であり、最終試験なのだ。

 天からの試練(霜)と、大地からの試練(水)。

 その両方を乗り越えることができて初めて、あの土地に立つ資格が与えられる。

 もし、乗り越えられなければ―――それは奴らが、この土地にふさわしくなかったというだけの話だ。


 彼は、解放された水が、農園の土を、ゆっくりと、確実に湿らせていくのを見届けると、誰に見られるでもなく、その場を立ち去った。


 その頃、修一たちは、畑の上で、寒風に煽られる巨大なブルーシートと格闘していた。

 天から舞い降りてくる、白い死神。

 彼らは、その、目に見える脅威だけに、必死で抗っていた。

 自分たちの足元、その、すぐ下から、もう一つの冷たい絶望が、音もなく忍び寄ってきていることなど、知る由もなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ