第52話 岩田の最後の授業
その夜、岩田茂は自宅の縁側で、じっと息を潜めていた。
窓の外の空気は、刃物のように冷たく、澄み渡っている。長年の農家としての経験が彼に告げていた。今夜は霜が降りる。植物の、か細い命を容赦なく刈り取る、白い死神が舞い降りる夜だ、と。
彼の視線の先、暗闇に覆われたコミュニティ農園で、いくつかの小さな光が、慌ただしく動き回っていた。懐中電灯の光だ。あの素人どもが、今頃になって、慌てふためいて、何かをやっているらしい。おそらく、あの、冴えない中年男の「予言」でも、あったのだろう。
「……付け焼き刃め」
岩田は、吐き捨てるように呟いた。
本物の農家は天気図を読み、風を読み、肌で空気の匂いを嗅ぎ分け、何日も前から、この寒さに備える。それを当日の夜になって、ビニールシート一枚で、どうにかしようなんて。愚の骨頂だった。
だが、それだけでは足りない。
彼らに、本当の土の厳しさを思い知らせるには。
岩田は、ゆっくりと立ち上がった。そして、物置から、年季の入った長靴と、分厚い作業用の上着を取り出すと、闇の中へ足を踏み出した。
彼が向かったのは農園ではない。その裏手にある小さな林だ。
そこには、もはや、彼以外に、その存在を知る者もいないであろう、古い農業用の水路が眠っていた。かつて、この一帯の畑を豊かに潤していた、命の水路。
その水路の中ほどに、それはあった。
錆び付いて、蔦に覆われた、小さな鉄製の堰。
岩田は、その重いハンドルに、ごつごつとした両手をかけた。
(お前たちに、分かるか)
彼は、歯を食いしばり、渾身の力を込めて、ハンドルを回し始める。ギィィィ、という、錆び付いた金属の耳障りな悲鳴が、夜の静寂を切り裂いた。
(本当の農家は、天から降ってくる雨や霜だけを見ていればいいわけじゃない)
ずしり、と、ハンドルが大きく回った。
(この、大地の下を流れる水の声を聞き、それを治める術を知ってこそ、本物の農家だ)
ゴポポ……という、くぐもった音と共に、堰の隙間から、黒い水が勢いよく、流れ出し始めた。その水は音もなく、闇に溶け込むように、農園の最も低い区画へと、静かに吸い寄せられていく。
岩田は、それを、ただ、無表情で見つめていた。
彼の中に罪悪感は、ない。
これは破壊工作ではない。彼が、あの素人どもに与える、最後の「授業」であり、最終試験なのだ。
天からの試練(霜)と、大地からの試練(水)。
その両方を乗り越えることができて初めて、あの土地に立つ資格が与えられる。
もし、乗り越えられなければ―――それは奴らが、この土地にふさわしくなかったというだけの話だ。
彼は、解放された水が、農園の土を、ゆっくりと、確実に湿らせていくのを見届けると、誰に見られるでもなく、その場を立ち去った。
その頃、修一たちは、畑の上で、寒風に煽られる巨大なブルーシートと格闘していた。
天から舞い降りてくる、白い死神。
彼らは、その、目に見える脅威だけに、必死で抗っていた。
自分たちの足元、その、すぐ下から、もう一つの冷たい絶望が、音もなく忍び寄ってきていることなど、知る由もなかった。




