表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
賢者の城は六畳間  作者: かわさきはっく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/80

第5話 噂と初めての依頼人

 母・春子との間に温かい空気が流れるようになってから、田中修一の「リアル育成ゲーム」は、さらに熱を帯びていた。

 彼はもはや、自室の薄暗い城に籠るだけの王ではなかった。午前中の早い時間からベランダに出て、一心不乱に土をいじる。その結果、彼の住む古いアパートの二階の一室は、そこだけが別の世界の入り口であるかのように、青々とした緑で覆い尽くされていた。


 夏の日差しを浴びて生命を謳歌する植物たちは、当然、アパートの他の住人たちの目にも留まる。

 修一がゴミを出しに階下へ降りると、井戸端会議をしていた主婦たちが、ひそひそと噂話をしているのが聞こえてきた。

「ねえ、二階の田中さんとこのベランダ、すごいことになってるわよね」

「見た? あのミニトマトの色つや。まるで宝石よ」

「昔は気難しい人だと思ってたけど……。もしかして、すごい園芸家なのかしら」


 自分のことだとは分かっているが、修一は聞かなかったふりをして、そそくさとその場を立ち去った。褒められているのは分かるが、注目されること自体が、彼にとってはひどく落ち着かないことだった。


 そんなある日の午後だった。

 自室でイヤホンをつけてアニメを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。宅配便の予定はない。宗教の勧誘か、何かのセールスだろうか。修一はいつものように居留守を使おうとした。しかし、チャイムは遠慮がちに、もう一度だけ鳴らされた。


「……はい」

 仕方なくドアスコープを覗くと、そこに立っていたのは隣の部屋に住む、鈴木さんだった。小学生の子供がいる、人の良さそうな主婦だ。修一は、おそるおそるドアを細く開けた。

「あ、田中さん! すみません、お忙しいところ……」

 鈴木さんは申し訳なさそうに頭を下げると、一つの鉢植えをずいっと前に突き出した。鉢の中には葉が黄色く変色し、ぐったりと萎れたミニバラが入っている。

「実は、これ……。息子の入学祝いにもらったものなんですけど、枯れちゃいそうで……。それで、田中さんのお宅のベランダが、いつもすごく綺麗なので、何かコツがあったら教えてもらえないかなって……」


 依頼。

 修一の人生において、何年も無縁だった言葉だ。彼は戸惑った。

「いや、俺は別に詳しくないんで……」

「そんなことおっしゃらずに! 見てくださるだけでいいんです!」

 鈴木さんの必死な様子に押され、修一は渋々、そのミニバラの鉢を受け取った。


 鉢に意識を集中する。すると彼の頭の中に、あの鮮明な情報が流れ込んできた。


【対象:ミニバラ】

【状態:衰弱(根腐れ、日照過多)】

【最適化プラン】

 ・水分:過剰。水のやりすぎが根腐れの原因。風通しの良い半日陰へ移動。

 ・土壌:水はけの悪い土。鉢の底の穴を確認し、軽石などを追加推奨。

 ・処置:枯れた葉と枝は、思い切って剪定すること。


「……あの」

 修一は、攻略情報を自分の言葉に、慎重に変換しながら口を開いた。

「たぶん、水のやりすぎと……あと、西日が当たりすぎてるんじゃないかと。少し、風通しのいい日陰に移して、土が乾くまで水をやるのをやめてみたら……どうですかね」

 それだけ言うと、彼は自室から小さな袋を持ってきた。自分の菜園用に、攻略情報に従って肥料を配合した、特製の有機肥料だ。

「あと、まあ……よかったらこれも。少しだけ土に混ぜると、元気になる……かもしれません」

「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」

 鈴木さんは何度も頭を下げると、希望に満ちた顔で鉢植えを抱えて帰っていった。


 それから、一週間後のことだった。

 再び、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、満面の笑みを浮かべた鈴木さんが立っていた。その手には、あのミニバラの鉢が抱えられている。

 一週間前とは、まるで別物だった。枯れかけていた葉は瑞々しい緑を取り戻し、そして、枝の先には可愛らしいピンク色の蕾が一つ、膨らんでいたのだ。


「田中さん! 見てください! 蕾がついたんです! 本当に、ありがとうございました!」

 鈴木さんは自分のことのように喜んでいる。

「田中さん、魔法使いみたい! 本当にすごいです!」

 魔法使い。その言葉に修一の心臓がどきりと跳ねた。

「これ、お礼なんです。たいしたものじゃないんですけど」

 そう言って彼女が差し出してきたのは、手作りだというパウンドケーキだった。甘く、香ばしい匂いがした。


 修一は呆然とそれを受け取る。

 礼を言われ、感謝され、手作りの菓子まで貰ってしまった。他人から、こんなにもまっすぐな好意を向けられたのは、一体、何年ぶりのことだろう。

 ドアを閉めた後、修一は甘い香りのする包みを手に、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 困惑していて、ひどく恥ずかしい。

 だが、胸の奥がじんわりと温かくなるこの感覚は、決して悪いものではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ