第5話 噂と初めての依頼人
母・春子との間に温かい空気が流れるようになってから、田中修一の「リアル育成ゲーム」は、さらに熱を帯びていた。
彼はもはや、自室の薄暗い城に籠るだけの王ではなかった。午前中の早い時間からベランダに出て、一心不乱に土をいじる。その結果、彼の住む古いアパートの二階の一室は、そこだけが別の世界の入り口であるかのように、青々とした緑で覆い尽くされていた。
夏の日差しを浴びて生命を謳歌する植物たちは、当然、アパートの他の住人たちの目にも留まる。
修一がゴミを出しに階下へ降りると、井戸端会議をしていた主婦たちが、ひそひそと噂話をしているのが聞こえてきた。
「ねえ、二階の田中さんとこのベランダ、すごいことになってるわよね」
「見た? あのミニトマトの色つや。まるで宝石よ」
「昔は気難しい人だと思ってたけど……。もしかして、すごい園芸家なのかしら」
自分のことだとは分かっているが、修一は聞かなかったふりをして、そそくさとその場を立ち去った。褒められているのは分かるが、注目されること自体が、彼にとってはひどく落ち着かないことだった。
そんなある日の午後だった。
自室でイヤホンをつけてアニメを見ていると、玄関のチャイムが鳴った。宅配便の予定はない。宗教の勧誘か、何かのセールスだろうか。修一はいつものように居留守を使おうとした。しかし、チャイムは遠慮がちに、もう一度だけ鳴らされた。
「……はい」
仕方なくドアスコープを覗くと、そこに立っていたのは隣の部屋に住む、鈴木さんだった。小学生の子供がいる、人の良さそうな主婦だ。修一は、おそるおそるドアを細く開けた。
「あ、田中さん! すみません、お忙しいところ……」
鈴木さんは申し訳なさそうに頭を下げると、一つの鉢植えをずいっと前に突き出した。鉢の中には葉が黄色く変色し、ぐったりと萎れたミニバラが入っている。
「実は、これ……。息子の入学祝いにもらったものなんですけど、枯れちゃいそうで……。それで、田中さんのお宅のベランダが、いつもすごく綺麗なので、何かコツがあったら教えてもらえないかなって……」
依頼。
修一の人生において、何年も無縁だった言葉だ。彼は戸惑った。
「いや、俺は別に詳しくないんで……」
「そんなことおっしゃらずに! 見てくださるだけでいいんです!」
鈴木さんの必死な様子に押され、修一は渋々、そのミニバラの鉢を受け取った。
鉢に意識を集中する。すると彼の頭の中に、あの鮮明な情報が流れ込んできた。
【対象:ミニバラ】
【状態:衰弱(根腐れ、日照過多)】
【最適化プラン】
・水分:過剰。水のやりすぎが根腐れの原因。風通しの良い半日陰へ移動。
・土壌:水はけの悪い土。鉢の底の穴を確認し、軽石などを追加推奨。
・処置:枯れた葉と枝は、思い切って剪定すること。
「……あの」
修一は、攻略情報を自分の言葉に、慎重に変換しながら口を開いた。
「たぶん、水のやりすぎと……あと、西日が当たりすぎてるんじゃないかと。少し、風通しのいい日陰に移して、土が乾くまで水をやるのをやめてみたら……どうですかね」
それだけ言うと、彼は自室から小さな袋を持ってきた。自分の菜園用に、攻略情報に従って肥料を配合した、特製の有機肥料だ。
「あと、まあ……よかったらこれも。少しだけ土に混ぜると、元気になる……かもしれません」
「えっ、いいんですか!? ありがとうございます!」
鈴木さんは何度も頭を下げると、希望に満ちた顔で鉢植えを抱えて帰っていった。
それから、一週間後のことだった。
再び、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、満面の笑みを浮かべた鈴木さんが立っていた。その手には、あのミニバラの鉢が抱えられている。
一週間前とは、まるで別物だった。枯れかけていた葉は瑞々しい緑を取り戻し、そして、枝の先には可愛らしいピンク色の蕾が一つ、膨らんでいたのだ。
「田中さん! 見てください! 蕾がついたんです! 本当に、ありがとうございました!」
鈴木さんは自分のことのように喜んでいる。
「田中さん、魔法使いみたい! 本当にすごいです!」
魔法使い。その言葉に修一の心臓がどきりと跳ねた。
「これ、お礼なんです。たいしたものじゃないんですけど」
そう言って彼女が差し出してきたのは、手作りだというパウンドケーキだった。甘く、香ばしい匂いがした。
修一は呆然とそれを受け取る。
礼を言われ、感謝され、手作りの菓子まで貰ってしまった。他人から、こんなにもまっすぐな好意を向けられたのは、一体、何年ぶりのことだろう。
ドアを閉めた後、修一は甘い香りのする包みを手に、しばらくその場に立ち尽くしていた。
困惑していて、ひどく恥ずかしい。
だが、胸の奥がじんわりと温かくなるこの感覚は、決して悪いものではなかった。




