表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
賢者の城は六畳間  作者: かわさきはっく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

45/80

第45話 賢者の焦り

 植物のことなら、手に取るように分かった。

 葉の色が、ほんの少し薄いだけで、それが日照不足なのか、窒素不足なのかを、田中修一は、直感的に理解できた。土の乾き具合を見れば、その土地が、どれだけの水を欲しているのかを正確に感じ取ることができた。

 彼の能力スキルは、自然界の声なき声を聞くための完璧なコンパスだった。


 だが、そのコンパスは、人間の心が織りなす、複雑な迷宮の前では、何の役にも立たなかった。

 岩田茂の、歪んだ愛情と、孤独。

 佐々木凛の、焦りと、自分への、かすかな失望。

 仲間たちの、疑心暗鬼と、不安。

 それらの感情が、黒い霧のように、コミュニティ農園に渦巻いている。修一は、その霧の中心にいながら、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。植物を育てるように、人の心を育む方法を彼は知らなかった。


(俺が、なんとかしなければ……)

 罪悪感と、リーダーとしての責任感が、彼の心を焦りへと駆り立てた。

 正面から岩田茂と対峙する勇気はない。仲間たちの疑念を晴らすための言葉も持たない。

 追い詰められた彼が、唯一、思いついた行動。それは、あまりにも原始的で、あまりにも無謀なものだった。

 ―――自らの手で、この場所を警備する。


 その日の夜から、修一の、孤独な戦いが始まった。

 家族が寝静まった深夜、彼は黒いジャージ姿で、そっとアパートを抜け出す。そして、コミュニティ農園が見渡せる川沿いの土手の茂みに、息を潜めて身を隠した。

 十一月も近い深夜の空気は、肌を刺すように冷たい。時折、吹き抜ける風が、容赦なく彼の体温を奪っていく。遠くを走る車のヘッドライトが通り過ぎるたびに、心臓が、どきりと跳ねた。

 眠気と、寒さと、そして、いつ現れるか分からない敵への恐怖。

 彼は、ただ、奥歯を食いしばり、暗闇の中の畑を、じっと見つめ続けた。


 だが、そんな彼の必死の覚悟を、あざ笑うかのように、岩田茂は、一向に姿を現さなかった。

 夜が明ける頃、修一は、心身ともに疲れ果てた姿で自室へと戻る。数時間だけ仮眠を取り、そして、何食わぬ顔で、再び、農園へと向かう。

 そんな生活が、三日、四日と続いた。


 彼の変化は誰の目にも、明らかだった。

 目の下には濃い隈が張り付き、顔色は土気色にくすんでいる。何より、その精神状態が不安定になっていた。

「田中さん、ここの土、少し固いんですけど……」

 参加者からの何気ない質問に、彼は、これまででは考えられないほど苛立った声で返してしまった。

「見て分かりませんか! もっと、深く耕してください!」

 その刺々しい言葉に、その場の空気が凍りつく。

 母・春子が、彼のやつれた顔を心配して、「修一、ちゃんと眠れてるのかい」と尋ねても、「……うるさいな」と、吐き捨てるように部屋に閉じこもってしまう。


 彼は焦っていた。

 この場所を守りたい。仲間たちの笑顔を取り戻したい。

 その想いが、強ければ強いほど、何もできない自分が不甲斐なくて、許せなかった。

 その焦りが、彼の心を、じわじわと蝕んでいく。


 その夜も、修一は、冷たい茂みの中で、一人、畑を見張っていた。

 疲労は、すでに限界を超えている。だが、彼は帰るわけにはいかなかった。

(俺が守るんだ……)

 それは、もはや、使命感というよりも、強迫観念に近かった。

 彼は闇に覆われた畑を見つめる。すると、その黒々とした畝が、まるで、自分を嘲笑う、巨大な獣の口のように見えた。

(……おかしい)

 頭が、くらくらとする。

 幻覚だ。疲れているんだ。

 修一は、かぶりを振った。だが、その胸に広がった、冷たい、言いようのない恐怖は、もう、消えてはくれなかった。

 賢者の、鋭敏だったはずの感覚は、疲労と焦りによって、狂い始めていた。

 彼を、さらなる深淵へと引きずり込む、新たな異変の、それは、始まりの合図だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ