第45話 賢者の焦り
植物のことなら、手に取るように分かった。
葉の色が、ほんの少し薄いだけで、それが日照不足なのか、窒素不足なのかを、田中修一は、直感的に理解できた。土の乾き具合を見れば、その土地が、どれだけの水を欲しているのかを正確に感じ取ることができた。
彼の能力は、自然界の声なき声を聞くための完璧なコンパスだった。
だが、そのコンパスは、人間の心が織りなす、複雑な迷宮の前では、何の役にも立たなかった。
岩田茂の、歪んだ愛情と、孤独。
佐々木凛の、焦りと、自分への、かすかな失望。
仲間たちの、疑心暗鬼と、不安。
それらの感情が、黒い霧のように、コミュニティ農園に渦巻いている。修一は、その霧の中心にいながら、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。植物を育てるように、人の心を育む方法を彼は知らなかった。
(俺が、なんとかしなければ……)
罪悪感と、リーダーとしての責任感が、彼の心を焦りへと駆り立てた。
正面から岩田茂と対峙する勇気はない。仲間たちの疑念を晴らすための言葉も持たない。
追い詰められた彼が、唯一、思いついた行動。それは、あまりにも原始的で、あまりにも無謀なものだった。
―――自らの手で、この場所を警備する。
その日の夜から、修一の、孤独な戦いが始まった。
家族が寝静まった深夜、彼は黒いジャージ姿で、そっとアパートを抜け出す。そして、コミュニティ農園が見渡せる川沿いの土手の茂みに、息を潜めて身を隠した。
十一月も近い深夜の空気は、肌を刺すように冷たい。時折、吹き抜ける風が、容赦なく彼の体温を奪っていく。遠くを走る車のヘッドライトが通り過ぎるたびに、心臓が、どきりと跳ねた。
眠気と、寒さと、そして、いつ現れるか分からない敵への恐怖。
彼は、ただ、奥歯を食いしばり、暗闇の中の畑を、じっと見つめ続けた。
だが、そんな彼の必死の覚悟を、あざ笑うかのように、岩田茂は、一向に姿を現さなかった。
夜が明ける頃、修一は、心身ともに疲れ果てた姿で自室へと戻る。数時間だけ仮眠を取り、そして、何食わぬ顔で、再び、農園へと向かう。
そんな生活が、三日、四日と続いた。
彼の変化は誰の目にも、明らかだった。
目の下には濃い隈が張り付き、顔色は土気色にくすんでいる。何より、その精神状態が不安定になっていた。
「田中さん、ここの土、少し固いんですけど……」
参加者からの何気ない質問に、彼は、これまででは考えられないほど苛立った声で返してしまった。
「見て分かりませんか! もっと、深く耕してください!」
その刺々しい言葉に、その場の空気が凍りつく。
母・春子が、彼のやつれた顔を心配して、「修一、ちゃんと眠れてるのかい」と尋ねても、「……うるさいな」と、吐き捨てるように部屋に閉じこもってしまう。
彼は焦っていた。
この場所を守りたい。仲間たちの笑顔を取り戻したい。
その想いが、強ければ強いほど、何もできない自分が不甲斐なくて、許せなかった。
その焦りが、彼の心を、じわじわと蝕んでいく。
その夜も、修一は、冷たい茂みの中で、一人、畑を見張っていた。
疲労は、すでに限界を超えている。だが、彼は帰るわけにはいかなかった。
(俺が守るんだ……)
それは、もはや、使命感というよりも、強迫観念に近かった。
彼は闇に覆われた畑を見つめる。すると、その黒々とした畝が、まるで、自分を嘲笑う、巨大な獣の口のように見えた。
(……おかしい)
頭が、くらくらとする。
幻覚だ。疲れているんだ。
修一は、かぶりを振った。だが、その胸に広がった、冷たい、言いようのない恐怖は、もう、消えてはくれなかった。
賢者の、鋭敏だったはずの感覚は、疲労と焦りによって、狂い始めていた。
彼を、さらなる深淵へと引きずり込む、新たな異変の、それは、始まりの合図だった。




