第44話 疑心暗鬼の種
破壊されたダイコンの双葉は、参加者たちの手によって、丁寧に植え直された。
佐々木凛は、努めて明るく振る舞い、「負けずに、もっと良い野菜を育てましょう!」と皆を鼓舞した。その甲斐あってか、農園には、一見、以前と変わらない穏やかな日常が戻ってきたかのように見えた。
だが、一度、水面に投じられた石の波紋は静かに広がっていた。
異変は数日後の水やりの時間に起きた。
渡辺さんが、いつものようにリールからホースを引き出し、蛇口をひねる。しかし、ホースの先端から出てくるはずの水が、ちょろちょろとしか出ない。
「おや? また水道の調子が悪いのかね」
彼が首を傾げながらホースをたぐっていくと、その原因がすぐに分かった。ホースの中ほどが、まるで、鋭利な刃物で切断されたかのように、ぱっくりと裂けていたのだ。裂け目からは、水が虚しく地面を濡らしている。
「……なんだってんだ、こりゃあ」
渡辺さんの声に、その場にいた全員が凍りついた。
経年劣化による破損ではない。誰が見ても、故意に傷つけられたとしか思えない、きれいすぎる切断面。
子供のいたずら。カラスの仕業。そう言い聞かせていた彼らの心に、「犯人」という、明確な悪意を持った存在が、黒い影を落とし始めた。
その二日後のことだった。
凛が、市の予算で購入したばかりの、高級な有機肥料の袋が、道具小屋の中で無残に引き裂かれていたのが見つかった。中身のほとんどが、夜露に濡れた地面にこぼれ、使い物にならなくなっていた。
「……嘘でしょ」
凛の悲痛な声が響く。
それは、もはや、単なる嫌がらせではなかった。彼らの活動を根底から妨害しようとする、計画的な犯行だった。
その日を境に、コミュニティ農園の空気は完全に変わってしまった。
以前は笑い声の絶えなかった畑を重たい沈黙が支配するようになった。参加者たちは、互いに、どこか探るような視線を向け合う。
「最後に、道具小屋の鍵を閉めたのは誰だったかしら」
「新しい参加者の人たち、なんだか、よく知らないわよね……」
「まさか、この中に犯人がいるんじゃ……」
そんな、口には出せない疑念が、まるで、目に見えない毒の胞子のように、畑中に飛散していく。楽しかったはずの共同作業は、互いを監視し合う、緊張を強いられる苦行へと変わってしまった。
岩田茂が蒔いた「疑心暗鬼の種」は、参加者たちの心の中で、見事に芽吹いていたのだ。
凛は必死に、その綻びを繕おうとした。
「皆さん、仲間を疑うのだけはやめましょう! 私達はチームなんですから!」
だが、一度、失われた信頼は、容易には戻らない。彼女の言葉は空しく響くだけだった。
そして、修一は、そのすべての光景を、ただ、無力に眺めていることしかできなかった。
(俺のせいだ……)
彼が、あの時、岩田茂の存在を正直に打ち明け、凛の提案通り、すぐに対策を講じていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
彼が、事を荒立てるのを恐れたばかりに。自分の過去のトラウマから逃げたばかりに。
ようやく手に入れた温かいコミュニティが、目の前で音を立てて崩れていく。
その崩壊を彼は止めることができない。
リーダーでも、賢者でもない。彼は、またしても、ただの無力な傍観者だった。
その罪悪感が、じわじわと、彼の心を締め上げていた。




