第42話 見えざる敵
破壊されたダイコンの双葉は、コミュニティ農園に集う、ささやかな仲間たちの心に大きな動揺をもたらした。
犯人は誰なのか。目的は何なのか。
その日の午後、凛の呼びかけで、農園の脇で緊急の対策会議が開かれた。集まった参加者たちの顔には、怒りと、そして、得体の知れない悪意に向けられた、かすかな恐怖の色が浮かんでいた。
「これは、単なるいたずらではありません。悪質な破壊工作です」
凛は、皆の前に立ち、きっぱりとした口調で言った。その声は怒りで微かに震えている。
「私は、市役所の上司と相談して、正式に警察へ被害届を出すべきだと考えます。そして、今後の対策として、防犯カメラの設置も、予算が下りるように要請してみます」
それが、公的なプロジェクトの責任者として、最も論理的で正しい対応だった。
「おお、それがいい!」
「カメラがあれば、犯人も、もう手出しできないだろう!」
渡辺さんをはじめ、参加者たちのほとんどが、その凛々しい提案に賛同の声を上げた。そうだ、泣き寝入りする必要などない。自分たちは、被害者なのだから。
だが、その、当然の流れに、待ったをかけた人物がいた。田中修一だった。
「……まあ、待ってください」
修一は、おどおどと、皆の輪から一歩、前に出た。
「警察沙汰にするのは、少し、大袈裟じゃないでしょうか」
その、あまりにも弱腰な言葉に、その場の全員が耳を疑った。
「きっと、ただの出来心だったんですよ。子供のいたずらか何かの。一度きりかもしれませんし、わざわざ事を大きくしなくても……」
「田中さん!?」
凛が、信じられないという顔で、彼の言葉を遮った。
「どうして、そんなことをおっしゃるんですか! 私達は、被害者なんですよ! それに、もし、また同じことが起きたら、どうするんですか!」
「そ、それは……」
「先生、らしくもねえ!」
今度は渡辺さんが、怒鳴るような声を上げた。
「やられっぱなしで、黙ってろって言うのかい! あんたが、一番、この畑を大事にしてるんじゃなかったのかよ!」
仲間たちからの非難と、失望の視線が、修一に突き刺さる。
違うんだ。そうじゃない。
彼の心は悲鳴を上げていた。
事を荒立てれば、あの男は、必ず、もっと陰湿なやり方で報復してくる。過去の職場で、嫌というほど見てきた。正論を振りかざせば、振りかざすほど、彼らのような人間は、より深く、暗い場所へと潜っていくのだ。そして、こちらの心の隙を突いて、最も致命的な一撃を加えてくる。
そして、何より、修一の脳裏には、自宅の庭で、慈しむように土に触れていた、あの岩田茂の、孤独な姿が焼き付いていた。あの男を警察に突き出すことなど、彼には、どうしてもできなかった。
だが、そんな、彼の複雑な胸の内を、言葉にして説明できるはずもなかった。
彼は、ただ、俯いて、口ごもるだけだった。
「……カメラなんてつけたら、ご近所付き合いがギスギスしてしまいますし……」
その、あまりにも頼りなく、歯切れの悪い言い訳。それは、仲間たちの失望を決定的なものにするのに、十分すぎた。
凛は、深く、ため息をついた。彼女の目に浮かんでいた、修一への絶対的な信頼の色が、今はもう、かすかに揺らいで見えた。
「……分かりました。田中さんが、そうおっしゃるなら、被害届は、一旦、保留にします」
彼女は、努めて、事務的な口調で言った。
「ですが、カメラの設置要請だけは、私の判断で進めさせていただきます。これは、この場所を守るための最低限の措置です」
それは、もはや、相談ではなく、決定事項の通達だった。
彼らの間に生まれた、初めての明確な亀裂。
修一は、何も言い返せなかった。
彼は、ただ、黙って、自分の足元を見つめていた。
仲間たちを守りたい。その一心で、波風を立てないことを選んだ。だが、その結果、彼は仲間たちからの信頼を、自ら手放してしまったのだ。
見えざる敵―――岩田茂は、その日、一度も畑に姿を見せることなく、賢者の率いるパーティーに、最初の、そして最も効果的な一撃を加えていた。
リーダーへの信頼を失わせるという一撃を。




