第40話 賢者の憂鬱
十一月も半ば。種まきを終えてから、十日ほどが過ぎた。
コミュニティ農園は、今、新しい喜びに満ち溢れていた。参加者たちが、祈るような気持ちで見守ってきた黒い畝から、か細く、しかし、力強い緑色の双葉が、一斉に顔を出し始めたのだ。
「出た! 芽が出たわ!」
「先生! うちの区画のダイコン、全部、芽が出ました!」
畑のあちこちで、歓声が上がる。人々は、まるで我が子の誕生を喜ぶかのように、その小さな芽を愛おしそうに覗き込んでいた。
その輪の中心には、やはり田中修一がいた。
「田中さん、この芽はホウレンソウであってますか?」
「はい、間違いありませんよ。順調です」
彼は住人たちからの質問に、一つ一つ、穏やかな笑みを浮かべて答える。その姿は、もはや、かつての引きこもりの面影など、どこにもなかった。畑に集う、この小さな共同体の、誰もが認める賢者だった。
隣では、佐々木凛が、屈託のない笑顔で、渡辺さん夫妻と談笑している。子供たちは、自分の蒔いた種から芽が出たのがよほど嬉しいのか、畑の中を元気に走り回っている。
すべてが順調だった。
凛の夢は着実に形になりつつある。参加者たちの間には確かな絆が生まれた。そして、修一自身も、滅びゆく人生の最後に、かけがえのない居場所と役割を見つけた。
彼は幸せであるはずだった。心の底から、この光景を喜ぶべきはずだった。
だが―――。
修一の心は、なぜか薄い雲に覆われたかのように、晴れなかった。
この、あまりにも完璧な幸福。それが、まるで、嵐の前の静けさのように、彼には感じられた。
長年、親しんできたゲームの感覚が、彼に警告を発している。これは、平和な村のBGMが流れる、最後のセーブポイントだ、と。この先に、強大なボスとのイベント戦が控えているのだ、と。
彼の視線は、自然と、農園の向こうにある、一軒の家へと向けられた。
岩田茂。
あの日以来、彼は農園に姿を見せていない。だが、その不在は、修一の心に、かえって重くのしかかっていた。
あの、土を愛しすぎたあまりに、心をこじらせてしまった孤独な老人。
彼が、このまま黙って引き下がるとは、到底思えなかった。
「見てください、田中さん!」
凛が、嬉しそうな顔で、彼の手を引いた。彼女が指差す先では、子供たちが、小さなジョウロで、一生懸命、双葉に水をやっている。
「私、夢みたいです。田中さんのおかげです。本当に……」
「……いえ」
修一は、感謝の言葉を述べる凛に、力なく微笑み返すことしかできなかった。
この純粋な喜びを守らなければならない。この、ようやく芽生えた、か弱くて、美しい共同体を壊させてはならない。
その責任感が、彼の肩に、ずしりと重くのしかかる。
修一は、仲間たちの、その無垢な笑顔を見つめた。
そして、もう一度、遠くに見える岩田の家を見た。
このクエストは、まだ終わっていない。
畑を作り上げるという、チュートリアルは終わった。だが、岩田茂という、あまりにも人間的で、複雑な感情を抱えたラスボスを、どう攻略すればいいのか。
彼の持つ『攻略マニュアル』には、その答えは、どこにも書かれていなかった。
本当のゲームは、まだ始まったばかりなのだ。
彼の心にだけ聞こえる、不吉な戦闘開始のファンファーレと共に、物語は次なるステージへと進もうとしていた。




