第39話 撒かれた種、撒かれた火種
十一月の最初の週末。コミュニティ農園は、これまでで一番の活気に満ち溢れていた。
凛が市役所の予算と、地域の商店からの寄付で用意してくれた、たくさんの秋冬野菜の種と苗。それらを自分たちの手で、あの黒々とした大地へと植え付ける、記念すべき「種まき祭」の日だった。
その噂はアパートの住人だけでなく、近所にも広がっていた。
「うちの子にも、土いじりを体験させてみたくて」
「面白そうなことをやってるじゃないか」
当初は、たった数人で始まったこの計画は、今や、親子連れや、若いカップルまでが顔を出す、三十人規模の一大イベントへと成長していた。
凛が用意した温かいお茶を片手に、参加者たちは、修一が作った『畑の設計図』を囲んで、わいわいと楽しげに作業を進めている。
「渡辺さん、ダイコンの株間は、もう少し広く取らないと!」
「お母さん、見て! ミミズさん、みーつけた!」
畑には、絶えず、明るい笑い声が響き渡っていた。
修一は、その輪の中心にいた。
いや、物理的には、少しだけ輪の外から、全体を穏やかに見守っている。だが、誰もが彼を、この場所の精神的な中心として、深く信頼しているのが分かった。
「先生、ホウレンソウの種って、こんなに赤かったんですね」
小さな男の子が不思議そうに尋ねてくる。
「ああ。これは、病気にならないように、薬がコーティングされてるんだよ」
修一は、子供の目線まで、ゆっくりと屈んで、丁寧に答える。かつて、他人と目を合わせることさえできなかった男は、もう、どこにもいなかった。
彼は目の前に広がる光景を、眩しいものを見るように、細めていた。
自分が、ここにいる。この、温かいコミュニティの確かな一員として。
滅びゆくはずだった人生の終着駅が、こんなにも幸福な場所であっていいのだろうか。
彼の胸に、じんわりと温かいものが込み上げてくる。
その、幸福に満ちた光景を、少し離れた場所から、氷のように冷たい目で見つめている男がいた。
岩田茂だ。
彼は自宅の縁側から、腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で、農園の喧騒を眺めていた。
楽しげな笑い声。それは、彼の孤独な耳には、自分をあざ笑う、不快な騒音にしか聞こえなかった。
子供たちが、土の上を無邪気に走り回っている。それは、神聖な畑を踏み荒らす、冒涜的な行為にしか見えなかった。
そして、その輪の中心で、賢者のように振る舞っている、あの冴えない中年の男。
(……何が、先生だ)
岩田の心に、どす黒い、嫉妬と憤りの炎が燃え上がった。
俺の方が、あの男よりも、ずっと、ずっと、この土のことを知っている。愛している。それなのに、なぜ、俺は、こうして一人で、指をくわえて見ていなければならない。なぜ、あの男が、俺の、俺の畑だった場所で、王様のように、崇められている。
これまでは、言葉で忠告してやった。素人のお遊びは、やめろ、と。
だが、奴らは、聞く耳を持たなかった。それどころか、仲間を増やし、ますます、この土地に根を張ろうとしている。
もう、言葉ではダメだ。
奴らには、本当の厳しさを教えてやらねばならない。
土とは、畑とは、本来、どういうものなのか。生半可な覚悟で踏み込んではならない、聖域なのだということを。
岩田の目に険しい光が宿った。
そうだ。奴らに、本物の土の力で、分からせてやればいい。
彼の心の中で、ある、直接的で、そして、決定的な行動計画が、固まろうとしていた。
その頃、農園では、すべての種まきが、無事に終わろうとしていた。
参加者たちは、満足げな顔で、自分たちの蒔いた、未来の芽が眠る畑を眺めている。
その、幸福な空気の真っ只中で、修一は、ふと、言いようのない悪寒を感じた。
彼は何かに導かれるように、農園の向こう、岩田の家の方角へと視線を送る。
柿の木のそばに、もう、あの老人の姿はなかった。
だが、その不在は、彼の存在よりも、ずっと、不吉な気配を、修一の心に漂わせていた。
希望の種は蒔かれた。
そして同時に、破滅へと繋がる火種もまた、確かに、蒔かれてしまったのだ。




