第37話 凛の素顔
台風が過ぎ去ってから数日後の昼休み。コミュニティ農園には穏やかな時間が流れていた。
仲間たちは、台風一過の試練を乗り越えたことで、以前にも増して一体感を強めていた。畑の修復作業は驚くほど順調に進み、その合間には、あちこちで楽しげな笑い声が響いている。
修一は、その輪から少しだけ離れた場所に置かれた丸太に腰掛け、母・春子が作ってくれた、少し大きめのおにぎりを頬張っていた。
「田中さん、どうぞ」
不意に、すぐ隣から声がして、温かい湯気の立つ水筒が差し出された。見ると、佐々木凛が、にこやかな顔で立っている。彼女は、修一が断る前に、「どうぞどうぞ」と、その場に腰を下ろした。
「ありがとうございます」
修一は、小さく頭を下げて、水筒から湯呑みにお茶を注いだ。ほうじ茶の香ばしい香りが、秋の涼やかな空気によく合う。
「本当に助かりました。田中さんが、あの溝を掘ってくれていなかったら……今頃、この畑は全部、ただの泥の海になっていたと思います」
凛は、目の前に広がる復活した畑を、心から愛おしそうに見つめている。
「この場所が、私にとって、どれだけ大事か……。田中さんには、ちゃんと、お話ししたことがありませんでしたね」
そう言って、彼女は、少しだけ遠い目をした。
「私、小さい頃、夏休みになると、いつも田舎のおじいちゃんの家に遊びに行ってたんです」
それは、修一が初めて聞く、彼女の個人的な話だった。
「おじいちゃんの家には、テレビゲームなんてなくて、あるのは、家の裏に広がる畑だけ。最初は退屈で仕方なかったんですけど……」
凛の口調が、少しだけ、幼い頃に戻ったように弾んでいた。
「自分で土を掘って、種を蒔いて。毎日、水をやって、まだかまだかって、芽が出るのを待って。夏の日差しを浴びて、ぐんぐん育っていくキュウリやトマトを見るのが、いつの間にか、一番の楽しみになってたんです」
彼女は自分の手のひらを懐かしそうに見つめた。
「収穫の日に、自分で採った、泥のついたキュウリを井戸水で冷やして、そのままかじった時の味。あの、青臭くて、みずみずしい味は、今でも忘れられません。おじいちゃんが、土の匂いのする、ごつごつした手で、私の頭を撫でてくれたことも」
凛は、そこで一度、言葉を切ると、今の畑に視線を戻した。
「でも、おじいちゃんが亡くなって、あの畑は、もう、なくなってしまいました。今のこの街の子供たちは、スーパーに並んだ綺麗な野菜しか知らない。土の匂いも、収穫の喜びも、知らないまま、大人になっていく。それが、なんだか、すごく寂しいなって」
彼女は修一の方に向き直った。その瞳は、一点の曇りもなく、まっすぐだった。
「だから、作りたかったんです。この街の真ん中に。子供たちが泥んこになれて、お年寄りが昔取った杵柄を自慢できて、採れたての野菜を、みんなで分け合って笑えるような、そんな場所を。……それが、私の夢なんです」
修一は、ただ、黙って、彼女の話を聞いていた。
目の前にいるのは、もう、ただの「市役所の職員さん」ではなかった。
彼女は、佐々木凛という、一人の情熱的な若い女性だった。自分の、遠い日の、温かい記憶を、この街の未来に繋ごうと、たった一人で必死に戦っている。
彼の胸の奥で、新しい感情が静かに芽生えるのを感じていた。
これまで、彼は、自分の居場所を守るために、この農園に関わってきた。だが、今は違う。
この、不器用で、まっすぐな若者の、ささやかで、しかし、あまりにも美しい夢を叶える手伝いがしたい。
彼女に、あのビジョンで見たような、最高の笑顔になってほしい。
「……いい、夢ですね」
長い沈黙の後、修一が、ぽつりと呟いた。
凛は、自分の夢を語ったのが恥ずかしくなったのか、少しだけ顔を赤らめた。
「すみません、なんだか、私ばかり喋っちゃって……」
「いえ」
修一は、彼女の言葉を遮ると、目の前の黒々とした畑を見つめた。
「佐々木さんが、そう言うなら。きっと、ここは、そういう場所になりますよ」
その穏やかで、しかし、絶対的な確信に満ちた言葉に、凛は、ただ黙って、深く頷いた。
二人の間に言葉はいらなかった。
同じ夢を共有する、確かな仲間としての温かい信頼関係が、その瞬間、はっきりと形を結んでいた。




