第36話 雨上がりの虹
岩田茂の来襲から一週間が経った、十月下旬のことだった。
田中修一の決意は固く、農園には以前のような活気が戻りつつあった。だが、彼らの前に、新たな、そして、人の力ではどうしようもない脅威が迫っていた。
テレビのニュースは、日本列島に接近しつつある、季節外れの大型台風について、繰り返し警告を発していた。週末にかけて、この地域も、記録的な豪雨に見舞われる可能性が高いという。
そのニュースはコミュニティ農園の参加者たちを、絶望の淵へと叩き落とした。
「そんな……! せっかく、ここまで土を作ったというのに!」
緊急で集まった農園で、渡辺さんが天を仰いで嘆いた。彼の声は参加者全員の心の叫びだった。
柔らかく耕した、あの黒々とした土。栄養をたっぷりと含んだ奇跡の土壌。それが、濁流に飲まれ、すべてが流されてしまう。想像するだけで、皆、目の前が真っ暗になった。
「何か対策は……!」
佐々木凛が、必死の形相で修一に詰め寄る。だが、自然の猛威の前では、ビニールシートをかける程度の対策など、焼け石に水だ。
しかし、修一は、ただ一人、落ち着いていた。
彼は、こんなこともあろうかと、一週間前から、ある布石を打っていたのだ。
それは、開墾作業が一段落した時だった。彼は参加者たちに、農園全体を囲むように、そして、畝と畝の間に、数本の深い溝を掘るように指示した。
「先生、なんでこんなところに穴を? 土が乾いちまうじゃないか」
渡辺さんをはじめ、参加者たちは、皆、その指示を訝しんだ。それは、素人目には、ただ畑を荒らしているだけの、不可解な作業にしか見えなかった。
修一は、その時、こう答えただけだった。
「この土地は見た目よりも、ずっと水を欲しがるし、時には水を逃がしてやることも大事なんです。念のための保険ですよ」
誰もが、半信半疑だった。だが、『土の声を聞く男』の言葉に、皆、文句も言わずに、その不思議な溝を掘り上げたのだ。
そして、その夜。
台風は予報通り、この街を直撃した。
修一は自室の窓に叩きつける、暴風雨の音を聞きながら、ただ、祈るように、夜が明けるのを待った。
翌朝。嘘のように、台風一過の青空が広がっていた。
凛と修一が、一番に農園へと駆けつける。その後から、他の参加者たちも、恐る恐る、集まってきた。誰もが、最悪の光景を覚悟していた。
だが、彼らの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
畑は確かに、大量の雨水を含んでいる。ところどころに、大きな水たまりもできていた。
しかし―――彼らが丹精込めて作り上げた、あの黒々とした畝は、ほとんど崩れることなく、元の場所にあったのだ。
修一が、一週間前に掘らせていた、あの「保険」の溝。その溝が、濁った雨水をたっぷりと湛え、まるで、畑を守る城の「堀」のように、その役割を完璧に果たしていた。
「……す、すごい」
誰かが呆然と呟いた。
「畑が……守られてる……」
歓声が上がる。ある者は、その場にへたり込み、ある者は、隣の仲間と、手を取り合って喜んだ。
やがて、その歓喜の輪の中心で、渡辺さんが、一人の男の前に、ゆっくりと歩み寄った。その顔には、もはや、疑念の色など微塵もなかった。あるのは、畏敬と、絶対的な信頼だけだった。
「先生……」
渡辺さんは震える声で言った。
「あんた、この台風が来るのが……まるで、分かってたみたいじゃないか……」
修一は、その問いに、いつものように、曖昧に、はにかんだ。
「いえ、台風までは……。ただ、ここの土のポテンシャルを考えれば、一度、大雨が降ったら危ないと思っただけです。昔、本で読んだ、ただの知識ですよ」
その謙虚な言葉が、彼の神秘性を、より一層、際立たせた。
岩田茂の言葉に揺らいだ信頼。自然の猛威という、圧倒的な脅威。
その二つの試練を乗り越え、彼らの絆は、もはや、何者にも揺るがされない、強固なものとなっていた。
雨上がりの澄んだ空に、薄っすらと七色の虹が架かっている。
それは、彼らの輝かしい未来を祝福しているかのようだった。




