第35話 守るべき場所
「田中さん……? どうかしましたか?」
隣に立つ佐々木凛が、心配そうに修一の顔を覗き込んでいる。修一は、すぐに答えることができなかった。彼の意識は、能力がもたらした、岩田茂という男の、あまりにも切ない人生の奔流に、まだ囚われたままだった。
(そうか……あの土地は、あの人の、王国だったのか)
後継ぎもなく、時代の流れと老いには逆らえず、我が子のように慈しんできた畑を市に明け渡すしかなかった。その断腸の思い。そして今、自分の城跡で、素人たちが無邪気に遊んでいる。その光景が彼の目にどう映っているか。
修一の胸にチクリと痛みが走った。
他人の成功を妬む陰湿な嫌がらせ。そう思っていた。だが違ったのだ。岩田茂の行動の根源にあるのは憎しみではなく、むしろ、深すぎる愛情だった。土への、畑への、失われた自分の人生そのものへの。
その痛みを考えれば、彼の言動も、少しだけ理解できてしまう。かつての職場で、理不尽な仕打ちを受けてきた自分自身の境遇と、どこか重なる部分さえあった。
だが―――。
修一の脳裏に、別の光景が鮮やかに蘇る。
「ありがとうございますっ!」
涙を浮かべながら、満面の笑みで頭を下げた、凛の顔。
「先生、すごいじゃないか!」
ぶっきらぼうな、しかし、尊敬の念に満ちた、渡辺さんの声。
「お花のおじちゃーん!」
屈託なく手を振ってくれる、健太君の笑顔。
そして、食卓で「美味しいねえ」と、本当に嬉しそうに笑った、母・春子の顔。
岩田茂の痛みは、分かる。痛いほどに、分かる。
しかし、だからといって、彼の妨害を許していいということには、ならない。
彼の孤独な痛みが、今、ようやく繋がりかけた、このささやかなコミュニティを壊そうとしている。凛の夢を、参加者たちの希望を、そして、何より、自分が、この滅びゆく人生の最後に、ようやく見つけた、新しい「居場所」を。
そうだ。ここは、もう、ただの市役所のプロジェクトではない。
ここは、俺たちの場所だ。
俺が、この手で土を耕し、命を育み、仲間たちと共に未来の種を蒔いた。
初めて、誰かに必要とされ、初めて、自分の力で感謝の対価を得た。
そんな、かけがえのない場所なのだ。
過去の亡霊に怯え、逃げ出すのは、もう終わりだ。
たとえ、相手の痛みが分かったとしても、守るべきもののために、戦わなければならない時がある。
父だって、そうしたはずだ。文句を言いながらも、自分の役割から逃げはしなかった。
「―――この場所は俺が守る」
それは、声にならない決意の呟きだった。
修一は顔を上げた。その目には、もう、おどおどとした怯えの色はない。恐怖で震える足に、ぐっと力を込める。
彼は隣で不安げに彼を見つめていた凛に向き直った。
「佐々木さん」
彼の、これまでになく、まっすぐな視線に、凛は、はっと息を飲む。
「農園に戻りましょう」
「え……? でも……」
「あの場所は……」
修一は、そこで一度、言葉を切った。そして、はっきりと告げた。
「俺たちが守らないと」
その言葉に含まれた「俺たち」という響き。
修一が、初めて、このプロジェクトを自分自身のものとして捉えた、その力強い響きに、凛の瞳が見開かれた。
彼女は、何も聞かず、ただ、こく、と強く頷いた。
修一は、踵を返し、今、自分たちが守るべき場所―――コミュニティ農園へと、一歩、踏み出した。
その足取りは、まだ、かすかに震えていたかもしれない。
だが、それは、もはや、恐怖に怯える敗走者のものではなかった。
仲間と自分の居場所を守るために、困難な戦いへと自らの意志で赴く、一人の戦士の確かな一歩だった。




